seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢光治良文学愛好会

2025年10月06日

芹沢文学愛読者短信 2025年10月3日 芹沢文学愛読者の会

第248回名古屋芹沢文学読書会 (案内)

令和7年11月9日 (日) 午後1:30~午後4:30

内容:芹沢光治良著「神の計画」第3章を読みます。

就書会会場:名古屋市港図書館內集会室 (2階)


改札口を出るとすぐにエレベーターがあり、

それに乗り、地上に出た目の前が港図書館の入口。

当日は講師として、

沼津市芹沢光治良記念館助言者鈴木吉先生が

東京からお越しくださいます。

鈴木吉維 (すずきよしつな)先生は神奈川県立

高等学校に勤務されていたときから、芹沢文学研究に携わり著書に『芹沢光治良研究』『芹沢光治良救済の文学』など多くの著書があります。

芹沢文学研究の第一人者で、芹沢先生とも懇意にされていました。

読書会に出席希望のかたは、参考資料を当日お渡ししますので

下記宛に電話かハガキで申し込みください。


申し込み締め切りは、電話、ハガキ共に10月20日 (月) 必着。


自伝抄

第7回

捨て犬か雑草のように

芹沢光治良

人の情と好成績が救い (つづき)

月謝二円、校友会費三十銭で残りの七十銭で、一か月の学費や衣服費をまかなうのは、大変だったが、入学祝いに海軍軍人から送られた五円で助かった。

 その上、予期しなかったことだが卒業するまで成績が全学級で一番か二番で二年生からずっと特待生を続け月謝が免除され、毎月二円七十銭の学費のある中学生になれた。

 ただ、家の者にも村の衆にも、常に何かうしろめたさを感じて、自然に目がさがり、異端者のような悲哀がう疼いてならなかった。

一年生の時、天理教の宣教所が突然に県庁で認可になったとて、祖父の家の屋敷を一つつぶして西側の狭い空地に、増築のようにして教会ができた。

 二十年近く前に出願したので、その時認可になれば、父も財産をすてないで、すんだろうにと、祖父は不満で、その認可にも増築にも反対して、教会が完成する直前に神経痛で死んだ。


 教会といっても、十畳の座敷と同じ広さの板の間の神床のあるだけの粗末なもので、隣家の清ちゃんの父親が、朝晩二回神饌の世話をしていたが、祖父の家に増築した形なので、教会の費用は一切わが家の負担になった。

 そのことが、叔父一家に不幸になって

のしかかった。

 祖父の死後一年半ばかりして、叔母が四人目の子を流産して死亡したが、同じ頃祖母も栄養不良と過労のため白内障で視力を失った。

 その一年ばかり後に、叔父は再婚したが、その叔母は男の連れ子をして、口数の多い気の荒い人だったから、私には針の筵の上で暮らすような朝夕になった。

 ただ教会の十畳の片隅に机をおいて勉強もし寝泊まりできて助かったが、毎晩集まって来る漁師のおかみさん達の、たがいに話しあう不平や愚痴や貧乏話を傍聴して人間の憐憫さに静かに勉強もできなかった。

 三年の学年試験中にひいた風邪がなおらないで、翌年の体格検査の時、校医か乾性肋膜炎であるから休学して栄養をとれと、注意を受けた。

 もちろん医者にかかれないし、栄養をとるなど夢物語で、そのまま通学をつづけた。学校から保証人に同じ注意があったらしく、天理教の偉い先生方が次々に訪ねて来て、私が難病にかかったのは、学問をやめて天理教の青年になって奉仕生活をせよという神の啓示だとしつこく

説いて、直に退学するように責めたて幼時から、風邪でも腹痛でも薬ものまずに神の意思は何かと反省する習慣だったから、乾性肋膜炎についても、私は天理教的発想で原因を独り必死に探究した。従って、先生方の忠告が納得できなくて、そんな神なら信じないと宣言し、死んでもよしと覚悟の上で、一日も休まずに中学校を卒業した。

 その四月から沼津町の男子小学校の代用教員をして、七月に東京の第一高等学校の入学試験を受けた。

 学科は出来たが、体格検査で――この健康では寮生活が不可能だから、一年静養して来年来るように宣告された。


posted by セリブン at 20:28| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2025年09月14日

9月23日火曜日、祝日の日に、午後1時から

芹沢光治良文学愛好会は、9月23日火曜日祝日に開催されます。テキストは会場に用意されています。愛好会テキスト.jpg
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posted by セリブン at 20:00| Comment(0) | 月例会

2025年09月02日

国語表現の限界 雑誌 月刊文章講座 昭和10(1934)年4月1日 厚生閣発行 定価 15銭 29〜30

国語表現の限界

雑誌 月刊文章講座 昭和10(1934)年4月1日 厚生閣発行 定価 15銭 29〜30


日本語を駆使することがわれわれの宿命である限り、國語の約束を無観することはゆるされない。しかしそれは一応、常識的な意味に於てである。具体的に云ふなら、例へば、近頃見かける日本語の文章に「彼女は彼の母親に彼のことを訴へた」式のものがある「彼」の代りに「夫」が「彼の母「親」の代りに「姑」といふ言葉があることを知る程度、またてにをはの誤りから意味を取り違えられるのを避けようとする程度に於てである。それ以上に国語の制約國語の限界、古い秩序をすることは,現代の生活にあっては 、自縛に陥ることに等しい。

今日絵画と云へば、人人の想像には、よ多く洋画が浮び、音楽といへば和樂よりも西洋音楽を考へる。西洋文化の移入がわれわれの日常生活に興へた變化は大部分、もはや附加や擬装を超えて、根本的なものに結合され、常識化され、支配的なものとなっている。文章には情緒的な餘韻の代りに気魄やテンボが要求され、古い格調から来ていたリズムは、洋画や西洋音楽にみる近代的なそれに変わっている。これ等はすべてわれわれの日常生活自体の要求から来ているのであり、その反映なのである。しかも今後ますます生活は複雑になり、 文章はそれを直接的に反映して行かねばならぬ必然的な運命にある。

こんな情勢の中で、われわれは古い国語の制約や秩序に順応して、どこまで表現意欲を充たすことが出来るであらうか。 そこには表現意慾と伝達方法との間に矛盾があるばかりだ。われわれは不便な自縛と矛盾を追って満足してゐるわけには行かない。古い規定や秩序を踏破して、満足の行く方法を索(さぐ)らねばならぬ。それには反逆があるばかりだ。国語の約束が宿命である限り、破壊は混乱を招くだけであるが、反逆によって制約を超えなければならない。そこに創造がある。それがたとひ西から移入されたものに負としても。それをより自由な、より適切な日本語に生かし、表現意欲に添うふるのとなし得たなら、それはもはや立派に創造であり、今日の日本語である。

具礎的な一例だが、本誌でも触れた谷崎潤一郎氏の『文章蘐本』の中に「待望」といふ言葉の今日の時代に活用されている積極的な気持ちには、そんな説明的な、悠長な述べ方では通じない、時代の感情を胚胎しているように考えられる。今日の文章表現は、新感覚派の大胆な文章改革に負うところ甚大であるが、全くそれ以来、われわれは文章からその綴(つづ)り語るところを聞きまた語って聞かせる悠長さを失った。文章表現というものには、もっと端的で直接な生活感情の伝達方法があることを教えられた。それを文章に綴ることを超えて、文字そのもの言葉そのものが直ちに感覚であり、形態であり、時代の呼吸であるところの表現である。そういふ文字が構成してある文章でなければ、もはやわれわれの表現意には適さない。否、現代の生活感情を表現する手段はそれ以外にない。これを所謂従來の文章道に順応した文章と比較してみる時、いかに文章の質が異つているであろう。

勿論、国語の伝統に順応し乍ら、その制約と秩序の中で、今日の生活感情や時代を述べることも不可能ではない。しかしそれは一言を傳へるのに十行を要し、しかもあくまで述べるに止まって決して端的に実感を伝えることには役立たない。今日の文章は,時代と生活との変化に応じて、消極的な順應よりも、常に新らしく積極的な創造を必要とする。そこにだけ、文章の持つレアルがある。

posted by セリブン at 17:49| Comment(0) | 芹沢光治良の評論