2024年08月20日
2024年08月14日
芹沢文学研究会・会報 第130号 2024年 7月31日発行
四季報 夏号
芹沢文学研究会・会報
=夏の歌=
猛暑なり・・・ 日本の夏は 異常なれど パリ・オリンピック 浮かれて見てる
第百三十号(130)
令和6 (2024)年7月31日(水)刊行
芹沢光治良記念文化財団 最新情報
事務局より報告 財団ニュース (9)
最新情報
代表理事 勝呂奏 事務局より報告 2024年度の行事計画
@ 『芹沢光治良ノート』・「財団ニュース」の発行 無料配布
A 講演会・音楽会の開催 令和6年6月、11月、令和7年3月
活動場所:サロン・マグノリア等
B 財団ホームページの運営
大河小説『人間の運命』第4巻(友情)と第5巻(愛)の朗読を掲載
C 芹沢光治良に関する資料の整理、保管、
資料のデータベース化、整理・保管し、公開や展示貸し出し等
全国の芹沢文学読書会の紹介 芹沢光治良先生の色紙
芹沢文学のまわりでシリーズ同「光治良先生の書かれた『魂』について」
☆沼津市芹沢光治良記念館 沼津市制100周年記念
◎沼津市制100周年記念誌
『読む×見る×わかる 沼津の文学』
沼津市教育委員会から発行
令和六年三月三十一日発行 沼津市教育委員会事務局文化振興課、沼津市芹沢光治良記念館 編集・発行
◎令和6年企画展
『人間の運命』の舞台を旅する
沼津市芹沢光治良記念館
芹沢良の代表作『人間の運命』で描かれる東京やフランス等ゆかりの場所を特集します
期間 第1回は、6月15日(土)~12月1日(日)で開催されています。
開館時間 9:00~16:30 休館日 月曜日、休日の翌日、
第2回は、令和6年12月24日(土)~令和7年6月1(日)の予定。内容は変わります。
|〒410-083 静岡県沼津市我入道陀ヶ原517-1 ・FAX 055-932-0255
年末年始(12月29日~1月3日)。沼津市芹沢光治良記念館
この企画展の案内チラシは、既に届いていると思われる人以外の会員には同封します。
芹沢光治良文学愛好会の会報 通信No532
芹沢光治良文学愛好会の例会が、東中野区民活動センターの洋室4(2階)で行われています。第534回は、6月23日(日)に行われ、短編小説「蜜柑の便り」(昭和17年2月号 「愛國婦人」(愛国婦人会発行)をテキストにして、豊田英文が司会をしました。
今回の会報の同封資料は、
(1) テキスト『蜜柑の便り』冊子版 読書会用、
(2) 雑誌コピー『蜜柑の便り』昭和7年2月号「愛國婦人」愛國婦人會、
(3)2024年度総会報告 、
(4)講演録「おやさまと私」 作家芹沢光治良 ほんしば 第156~158号、
(5)芹沢光治良自伝「わが青春16 生かされぬ正義に失望」 [静岡新聞 昭和8年(1985年)2月27日(水)]
(6)講演会チラシ 7月14日(日)「芹沢光治良文学と宗教2世」
Adam Lyons、
(7)小冊子 『芹沢光治良ノート(4)』 芹沢光治良記念文化財団発行でした。
芹沢文学愛読者の会短信 第233号
7月15日
「芹沢文学愛読者の集い」が6月9日(日)に名古屋駅前の会場〈ウインクあいち〉、で行われました。東京の芹沢光治良文学愛好会の通信3号の『芹沢文学愛読者の集いに参加しました』の報告書が転載され、出席された7名の便りが掲載されていました。とても楽しい集いで、親しく交流できてとても幸福です等と書かれています。安井恵美子さんが、昭和48年1月23日のひととき欄に寄稿した「芹沢さんと私」のコピーと感謝のことばも同封されていました。全国から多くの方々が集ったようです。
全国各地の芹沢文学読書会・愛読者の集いの紹介
財団ニュースに掲載
▽川越・芹沢光治良文学愛読者の集い 小林茂樹代表
▽川越・芹沢光治良文学愛読者の集い 小林茂樹代表 埼玉県川越市
▽横浜芹沢文学読書会 池田三省代表 神奈川県横浜市
▽芝川読書会 青木秀夫代表 静岡県富士宮市
▽岡山芹沢文学読書会 桑田幸真代表 岡山県福山市
芹沢文学研究会事務局/ 〒872-1651 大分県国東市国東町4765 小単信正方
FAX 0978-77-0565
同封資料/
@ コラム「『人間の運命』を読む」 不鈴木吉維(よしつな)沼津朝日令和6年6月2日
A地域の情報報 「芹沢記念館の玄関にタイサンボク」沼津朝日令和6年6月16日
B 「三つの鐘」芹澤光治良 「読物時事」昭和24年4月号 時事通信社発行 [資料提供中村子]
C文芸評論 「芹沢文学講話㊳ 最期の連作C「連作と大自然の神」=芹沢光治良の神と信仰=
芹沢文学研究会 代表 小串信正
☆ 芹沢文小論
「芹沢光治良とペンクラブ」
小串信正
会員使りが届きませんでしたので小串が書きます。
朝日新聞の夕刊に連載した『明日を逐うて』で島崎藤村の知遇を得た。昭和10年(1935) 11月に、島崎藤村は、日本ペンクラブを発足させ、初代会長になった。芹沢光治良が経済学部の出身であると、会計主任を任されて、発足の時からペンクラブの役員として支援して来た。 芹沢光治良は、文化事業部課長となった沼津中学の先輩市河彦太郎を通じて内密で、「日本ペンは、政治に触れぬという条件で、各国センターとの友誼を全うしたい」という一文を、ロンドンの国際ペン本部に電送してもらったとか…。戦中には、日本ペンクラブの活動も出来なくなり、銀座の松田ビル内にあった小さな事務所も閉鎖された。
戦後にペンクラブ再建にも尽力し、第三代志賀直哉の後に昭和23年に川端康成が第四代会長となり、芹沢光治良は長く副会長をした。昭和25年4月には、川端会長等と広島を訪ねて、日本ペンクラブとして原爆反対、平和擁護の決意を発表した。
後には原爆を取材して長編小説『一つの世界(サムライの末裔』を創作した。 昭和35年
にスイスのローザンヌで行われた国際ペン大会に石川達三夫妻、池島信平と参加した。レーザンも訪ね、デュマレ博士に再会し「再びブルジョアの日に」を書いた。
帰路にパリに滞在し、知人・友人を訪ね、ロベール・ラフォン社から仏訳の『巴里 に死す』が出されることになった。長編小説『新しいパリ』『告別』も創作した。
昭和32(1957)年に東京で国際ペン大会が開催され、川端会長と副会長として尽力し
た。特にゲスト・オブ・オーナーとしてペン会員を迎えた。テーマは「東西文化の融合」であった。大会後の昭和40(1956)年に、川端会長の退任で、次の会長に芹沢光治良を特に推薦したので、固辞していたが、止むを得ずに第五代会長に就任した。昭和28年7月にフランクフルトの国際ペン大会に名誉会員として参加した。
昭和32 (1957)年に、川端康成が日本人作家として初めてノーベル文学賞を受賞した。昭和47(1972)年の秋に日本ペンクラブ主催で日本文化研究国際会議を会長として開催しようとしていたら、4月16日に川端康成が急逝し、会長の芹沢光治良が招待者依頼にモスクワとパリに行く。帰国後に葬儀委員長として川端康成の葬儀をした。同年11月に東京と京都で日本文化研究国際会議を盛会に開催した。 昭和49(1974)年10月に芹沢光治良は、9年間務めた日本ペンクラブ会長を辞任した。
芹沢文学 豆知識 『生きること書くことわが人生観』 芹沢光治良 大和出版 発行
大和出版が人生を考える指針のシリーズとして、芹沢光治良の随筆を集録して
「わが人生観」
『生きること書くこと』を1976(昭和5)年9月3日に出版しました。254頁、850円。
佐古純一郎が編集し解説を書いています。巻頭の一文「私はまだ普通名詞胴忘れないから」は書下ろしです。第一章 自己を語る 第二章書くということ 第三章 若い人々のために
第四章 結婚についての構成です。全38篇。随筆集 『文学者の運命』『こころの窓』『こころの旅』『人生について・結婚について』から選んで収録。「結婚をいそいではならない」は、雑誌〈暮しの手帖〉4号(1976年4月)に寄稿したものです。巻末の解説 「死をみつめる心」は佐古純一郎作。「年譜」は芹沢文学館編です。 BOOK OFF 等の古本屋で見つけることも出来ます。図書館にあることもあります。 大和出版に在庫があるかは不明です。御一読下さい。
☆年会費未納の方は同封の払込取扱票にて納入をお願いします。今年度も年会費を1800円に据置きます。同封の郵便振替にて納入をお願いいたします。 自主的な寄付も受入れます。
どうぞ、よろしくお願いします。
▽新入会員の紹介 その後の入会者は有りません。新入会員をお誘い下さい。
☆ 編集後記
編集責任 小串信正・
芹沢文学研究会の会報第130号と同封資料をお届けいたします。芹沢文学研究会が、1992(平成4)年1月に発会して、今年は33年目の歩みです。 会報が130号となりました。会員の皆さんに感謝いたします。 会員は少なくなっていますが、これまでの蓄積もあり、何とか継続して行きたいと思います。
今年は1月(元日)に能登大地震があり、猛暑の中に線状降水帯やゲリラ豪雨で、河川が氾濫したり、崖崩れなどがあり、各地に様々な災害が起こっています。
世界では、ロシアの独裁者プーチンによるウクライナ侵略が続けられ、イスラエルとガザのハマスによる戦闘も一段と悲惨なものになっています。軍事政権や内紛などで、難民が1億人以上も各地に溢れています。 地球温暖化は段々と深刻なものとなっています。日本のこの猛暑も、地球温暖化の大きな結果と言えます......。
この暑さで、パソコンのある部屋(別棟)には扇風機しかなくて、会報の作成も進まず、31日にやっと会報だけは完成しましたが、同封資料の「芹沢文学講話」は、これから書くことになるので、発送が少し遅れますが、どうか御了承下さい。 7月末締切りの三浦哲学の論文が重なり、芹沢文学研究会の夏号への取組みが遅くなったのですが、この暑さで中々進まなかったのです。こんなに会報の作成に苦しんだのは、暑さだけでなく老化のせいかもしれません…... 皆さん、御自愛下さい。
文学評論 連載「芹沢文学講話」 ㊳ 芹沢文学研究会
代表 小串信正
最期の連作C 「連作と大自然の神」=芹沢光治良の神と信仰
芹沢光治良は、「神の書」「天の書」の連作を書き続けました。 全九巻の構成でしたが、第九巻は未完に終わりました。没後に新潮社から刊行された叢書『神と人間』は、全八巻箱入です。この最期の連作は、「神」について書こうとしたもので、親様(存命の中山みき 社伊藤幸長)から導かれて、書き続けたものです。90歳を過ぎて、一年に長編一巻ずつ書下ろした驚異的な作品と言えます。自己の人生は、全て親神に導かれたものであったと、全生涯を再度回想して創作したもう一つの集大成と言えます。テーマは「神と信仰」だと思います。
芹沢光治良は、父常晴と母はるの次男として静岡県駿東郡楊原村(現沼津市我入道)に生まれました。家は代々網元で裕福でしたが、父と母が、天理教を信仰し、伝道所を開こうとしましたが、許可が下りず、教祖中山みきに倣って、財産を寄進して家を出て伝道師になったので、実家は祖父母に残しましたが、貧困となりました。次男光治良は祖母に懐いていたので、実家に残しました。 それを光治良は、父母から棄てられたと思い込み、生活苦や苦学を強いられました。祖母や叔父夫婦の中で、天理教の信仰で育てられます。漁師になることを
嫌って、親類の支援を得て沼津中学に進学しました。それで村八分になりますが、代用教員をして一高に進学しました。一高で苦学して、天理教の信仰を捨てました。 その後は天理教の信者になることはありませんでしたが、天理教に対峙して、両親の天理教を研究し、戦後には中山みきの伝記小説『教祖様』を著作しました。 一高・東大の学友からキリスト教を学び、パリ留学や結核闘病でカトリックに生活的に触れ、信仰としてはカトリックに魅かれました。
そして、オートヴィルの結核療養所ホテル・レジナで出会った三人の闘病青年達、特に天才的な科学者で「大自然の神」を説いたジャック・シャルマンには、「神と信仰」に大きな影響を与えられたのです。最期の連作を書いたのは、「天理教の刻限」と「世界の大掃除」、そしてジャック・シャルマンからの「大自然の神」を日本・世界に知らせるためであったと言えます。 芹沢光治良は、自身を無信仰で自由人でありたいと自覚していましたが、この連作には、独自の神観(大自然の親)と実の世界(天国・死後の世界)が説かれています。
芹沢光治良にとって、幼少から天理教に育てられたので、天理教の教団には批判的でしたが、神観や信仰においては天理教を超越出来なかったと私は思っています。中軽井沢の山荘では、天の声を聴いて独自の発想をしますが、小平教授に紹介された伊藤幸長青年に出会って、霊媒的に聞いた存命の親様(中山みき)に導かれたので、連作で啓蒙した「刻限」と「世界助け」は天理教的でした。その刻限(理年)は、教祖中山みき没後百年祭の一九八六年と天理教立教百五十年の一九八七年でした。存命の中山みきは、天理教の教祖ではなく、十二段
階の修行をした天の将軍として、「万物の母」「人類の母」として、この刻限に他の九人の天の将軍の支援を受けて、中心的に「世界の大掃除」をしているので、芹沢光治良に筆の力で協力して欲しいと求めたのです。最初の提言は「人間(女)としての教祖伝」を書くことでした。しかし、既に伝記小説『教祖様』を書いているとして、「神の書」の三部作を書くことになります。 伊藤青年には興味が無いが、その口から語られる存命の親様の言葉は確かなもので、復活のイエスや釈迦も語り掛けるのに感動し、取組むことになったのです。親様(存命の中山みき)に導かれて書かされたのですが、90歳を越えて一年に一冊の長編を創作し、出版出来たことに歓喜します。後に伊藤青年を「社」として育成する後見人になることも求められます。伊藤青年は、川口で「天命庵」を開き、新興宗教的な活動をし、後に湯河原に移転し、存命の親様から大徳寺昭輝の通称(尊称)と「月日の命」(社称)が与えれました。芹沢光治良没後の天命庵の現状や大徳寺昭輝の活動は知りませんが、芹沢光治良の期待に応えて欲しいと思います。
芹沢光治良の語る神は、天理王命ではなく、フランスのオートヴィルの高原療養所で一緒に結核闘病した天才科学者ジャック・シャルマンが説いた「大自然の神」「宇宙の創造神」でした。「神は大自然の力」「宇宙を動かしている唯一の力」等と、宇宙の星々、太陽や諸惑星、地球や月などを動かしている力、すなわち万有引力であり、全エネルギーが神であると説いたのです。天才科学者であるジャックらしい発想です。それを芹沢光治良は、「大自然の親神」と理解したのです。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教は「天の父なる親神」
を信仰して来たのです。天理教は神道的ですが、神は親神です。ギリシャやローマの神々は
人間の先祖神と言えます。日本の八百万の神々はアニミズムで、全ての物に霊魂を認める世界観です。 天照大神による太陽信仰です。エジプトの多くの王国でも太陽信仰でした。西洋には汎神論的な世界観もあります。近代科学が説く世界観は、物質の解明が主で無神論的です。 「大自然」とは、宇宙も含みますが、地球の大きな自然のことです。 「大自然の力」といえば、万有引力等の四つの力学の総称と言えます。宗教が説く「親神」は、人間の想像力が生み出した神様です。それを芹沢光治良は「大自然の親神」として力学と親神を一つのものとして説いたのです。私は、三浦梅園の「三浦哲学」を研究しているので、「天」は親神ではなく、「無意(意識が無い)」の一元氣であり、「人」は生命がある「有意(意識が有る)」な実存と考えます。「天」を「大自然」と言っても良いですが、「親神」とは言えません。芹沢光治良が「親神」を「大自然の力」と言うのはユニークですが、私は認めません。ジャックは「地球をとりまく大気に、人間の死後の世界があるのではあるまいか。」「死後、青空にのぼり、大気のエネルギーになって、永遠に生きるとともに、地球上の生物を育む力にな
るんだな。」とも語りました。これを、芹沢光治良は神の世界・死後の世界を「実相の世界」に発展させます。神から肉体を借りて生きている人間の世界である「現象の世界」と「実相の世界」は表裏一体であると言います。 天国と地獄は死後の「実相の世界」には無く、「現象の世界」には有ると説きます。 悪魔はいないが、「実相の世界」には数多くの天使がいて、死後に霊体(魂みたま)となった人々の世話をしてくれるとか。人間創造に九億九千九百九十九万年もかかったとか。九億年とは恐竜時代以前です。また最初に作った九億九万九千九百九十九人の人類は天使となって、後の人間の世話をしているようです。天理教には天使はいないのですが、「実相の世界」には多くの天使がいるそうです。 天使には羽根は無いようですが、類人猿が天使とされているのでしょうか?人間は死後にも自分のやりたいことが出来て、永遠に生きるとか。「人間は人種や国籍の如何を問わず、みな兄弟であり、みな親神のいとしい子供である。」として「親神が人間を創造したのは、人間の陽気暮しを見て楽しもうと」するためだと説いています。 親神は「実相の世界にいる。 常に十柱の神と十人の天の将軍にまもられている。」とのこと。天理教、キリスト教、佛教を統合しようとしていますが、「コーランに依るマホメット教は、親神の教えではないのだ。」と、イスラム教を批判しています。 「十柱の神」とは、天理教の創世記的な経典『泥海古記』に説かれている神々で、イザナギ、イザナミもその内の二柱のようです。天理教を超えているのですが、こんな経典や「十柱の神」などは説くべきではないように思われます。 「天の将軍」も、中山みきを教祖として認めさせる時に現れた神の名称です……。十人の天の将軍は、中山みき、釈尊・イエス・マホメット・ソクラテス等です。 宗教的聖人を天の将軍と呼んでいるのです。
昭和61(1986)年頃に、存命の親様から、「神の水(ルールドの奇蹟の水)」の作り方を教えられ、自分でも作って飲むようになりました。天の将軍に勧められて平成元(1989)年から、求める人に「神の水」を配るようになります。このことを知った時、新興宗教と誤解されるのではと心配しました。 しかし、「神の水」は水道水で作り、親神の思いを込めるもので、信じる人に無料で渡していると聞いて安心しました。親様から「水わけの命」の神名が与えられました。
平成3(1991)年に、親しい後輩で佛教学者の山本三平が、『教祖様』を読んで来訪し「傑作ですね」と褒めます。第七巻から「天の書」を書くように太陽に言われます。天で困るなら「大自然の夢」としたらと言われます。三平から天理教の『こふきの研究』(中山正善編)を紹介され、芹沢光治良は、「もとはじまりの話」を試作したりします。これはどんな意義があったのでしょうか?
芹沢光治良は、天の将軍(存命のソクラテス等)に導かれて、「現象の世界」で著作したり、日常の行動をしますが、後に特別の訓練を受けて、「実相の世界」に霊的に入り込み、あちこちを見て回れるようになりました。 そして、成長をしたので、天の将軍なしに、直接に太陽や大自然とも話せるようになります。 大自然はいつも「人間、善人であれ、悪人であれ、乞食から天皇まで、すべて、可愛いわが子や」と言います。「実相の世界」で天才ジャックと再会して、語ったり導かれたりもします。 「天の学校」への入学も許されました。 「天上の世界」も大気圏にあり、天上界から優雅な音楽(天の調べ・大自然の調べ)が聴かれます。 芹沢光治良の宗教論で、一番の特色は、教会や教団を批判して認めないことです。両親の献身的な宗教活動で、家族が分断され、貧困や苦学の体験によると思います。教団となると教祖の説いた信仰が歪められ、多額の献金が強要され、教会や神殿等の物的な建設に使われます。 また教祖一族の贅沢な生活に使われます。 そして教祖が親子や親戚で血統的に世襲されがちです。 本当の信仰が行われず、信徒が犠牲にされるからです。 芹沢光治良は、どの宗教や教団にも属さず、無教会的な信仰でした。妻金江は、小平教授によって天理教で葬儀をしましたが、芹沢光治良は天命庵葬ではなく、無宗教で「お別れ会」葬でした。 芹沢光治良文学愛好会の鈴木春雄が司会をしました。 最期の連作に書かれた「神と信仰」は、2世紀の人類への遺言と言えます。[令和6 (2024)年8月識]
2024年06月26日
【沼津市芹沢光治良記念館】当館企画展等関連新聞記事等について(お知らせ)
皆さまへ
平素より大変お世話になっております。
さて、『沼津朝日新聞』に、当館助言者の鈴木吉維先生による、開催中の当館企画展「『人間の運命』の舞台を旅する」(第1回)に関連したコラムの掲載がされました。
また、先般取材があり、当館前庭のタイサンボクの開花に関する記事の掲載がされました。
つきましては、ご参考までに各記事の写しを別添のとおり送付申し上げますので、ご参照ください。
・『沼津朝日』6月23日付言いたいほうだい「『人間の運命』を読む」鈴木吉維氏
・『沼津朝日』6月25日付「芹沢記念館の玄関脇にタイサンボク」
今後とも変わらぬご支援とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
沼津市芹沢光治良記念館
055-932-0255
kojiro@city.numazu.lg.jp