seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢文学講話: 芹沢光治良文学愛好会

2016年09月19日

文学評論 連載「芹沢文学講話」E 芹沢文学研究会 代表 小串信正


  芹沢光治良氏の処女作と出世作

 芹沢光治良氏は、幼少の頃から作文が得意で、沼津中学時代には、『学友会報』に「夜の歸り道」「記念館 心のひゞき」「卒業間際に」などを発表しています。短歌二首も収録されています。講話・講演の筆記をしたり、学芸大会の演説「難船」で一等賞を受賞しています。大正二年度の学芸部長に市河彦太郎、委員に芹沢光治良・橋爪健・北川三郎が選ばれ、これらの秀才組で自主的に回覧同人誌を発行したりもします。沼中時代のことは、大河小説『人間の運命』にも詳しく創作されています。『レマン湖のほとり』に市河彦太郎のことを「彼は中学校の一年先輩で、故郷の名門の出であり、豊かな家庭の長男に生れて、健康で、美男子で、秀才で、人生に何一つ不足のないような『幸福者』であった。中学時代から絵画や文学に優れた才能を発揮して、将来はゲーテのような大芸術家になるのだという野望をいだいて、そう自ら言っていた。」と書いているように一年先輩で、文学的な才能もあり、中学四年生の時に友情を結びました。彼を同級生にして、石田家の御曹司孝一として大河小説『人間の運命』の中心人物として登場させていることは、良く知られています。この頃、実兄が一高に進学し、「彼は一高生になると、休暇毎に祖父母の処へ顔を出して、休暇中に読もうとして持参した文学書を私に見せて、私が欲するならば、休暇中私に貸してくれると言った。ロシア文学の翻訳書や日本の自然主義の小説や白樺派の小説などが多かったが、私は選択することなく、手当り次第、なんでも熱中して読んだ。文学書を読むことで、自分が変わることがはっきり感じられて、力づけられた……」(『文学者の運命』)とあるように、弟を文学へ導きました。

 芹沢氏と文学の最初の出会いは、中学生になって、家が教会となると天理教の雑誌「道の友」が毎月届き、そこに岩井尊人という東大の学生がツルゲーネフの紹介文を連載していたのを熱心に愛読したことでした。中学校の記念図書館で英訳のツルゲーネフを買ってもらい精読したのです。肋膜炎を患った時、その見舞いに市河君からトルストイの短編集をもらいました。また図画教師の前田千寸先生から、雑誌「白樺」や図書室にない多くの文学書を借りて読み、フランスの文化(美術・文学)へ憧れ、のちにフランスへ留学する夢が育まれたのです。代用教員をして学資を貯めて、一年遅れで一高に入学しましたが、仏法科でフランス語を本格的に学びます。『私の青春時代』に「フランス語を学ぶことによって、フランス文化が、目の前にひらかれた。フランス語をはじめて、三カ月目には、ジャン・クリストーフ[注/ロマン・ロラン作。最後の三巻のみ]を原語で独り読むような、無茶なことをした。」と回想しています。寮生活で青春を謳歌して、演劇・音楽・絵画・文学に夢中になります。図書館の蔵書を読み、「入学したとたん、物書きになろうとあこがれていたことを、先ず実行するつもりで、原稿用紙で二十枚から三十枚の短編小説を三編書き上げて、実兄に見せた。」(『文学者の運命』)のですが、兄から厳しく批判され、失望させられました。二年生で作文(一年間に数篇の作文を提出)担当の青木先生の推薦で文芸部の委員に選ばれ、校友会雑誌に「失恋者の手紙」という小説の習作を発表したのです。この時に市河君から励まされ、作家・有島武郎の「草の葉会」にも紹介してくれました。市河君は一高の卒業記念に長編小説『若い芽』を自費出版し、東大法学部を卒業して外交官になり、のちにイラン大使になりました。戦後に外務省を辞めて、自適な生活をしていましたが、参院選に立候補した同窓生の応援演説中に倒れて急死しました。市河彦太郎氏は、作家にならずに終わりました。

 この「失恋者の手紙」は、東大三年生C君の失恋を観察して、習作的に小説化したものですが、菅忠雄君など学友の三人や教官にも認められ、特にフランス語の石川剛教授に評価され、経済的に支援するためにメリメの作品の下訳を依頼され、東大の仏文科に進学して作家の道を目指すように激励されました。

芹沢氏は学資を援助してくれた安生氏の娘鞠さんと恋愛し、短歌を詠み、小説を習作したりもしますが、文学的な才能に自信が持てませんでした。「有島氏の苦悶が経済学の知識の欠如による」ことを思い、京都大学の河上肇博士の「貧乏についての連続講演」を聴いて、東大経済学部へ進学しました。恋人と結婚するためにも文学部でなく経済学部へ進学し、高等文官試験に合格して高等官を目指す必要があったのです。ペールと慕った石丸助三郎氏の麻布邸宅の離れに寄寓します。石丸氏から誕生日祝いに『ジャン・クリストーフ』の原書全巻が贈られました。その後、シェークスピア全集など色々の文学書をもらいました。ペールの勧めで、大学一年の秋に同人雑誌「自分達」に短編小説を寄稿しました。若い糸井助教授に親しみ、実証的社会学を学びます。個人的にはプルードンなどのフランス空想社会主義やバクーニン、クロポトキンなどのアナーキストの書物を読みました。ロシア革命に関心のある学友と研究会を開きましたが、法学部の学友の菊池勇夫君も参加していました。菊池君に勧められ、一緒に高等文官試験の猛勉学をして合格しました。「日本の産業を握っている農商務省のなかにはいって、日本中の貧しい人々が貧困から解放される運動に手を貸そうと、ロマンチックに考え」(『神と死と冨と』)、官吏の道を選びました。しかし、小作法の制定において、自分の理想が叶えられず、官吏であることに絶望します。有島武郎の心中や関東大震災の災害にも打ちのめされます。エリートの高等官に任官され、山林官として秋田に転任しましたが、愛する人がドイツ留学中に医者と結婚することになり、失恋(この時にこれまで作った短歌全てを焼却したとか)した芹沢氏は官吏を辞職して、ベルリンで客死した糸井助教授の遺志を継いでフランスへ留学することを決意しました。石黒課長から、学者の道を勧められ、農林省の委託として海外調査を依嘱されました。

 失意の芹沢氏を励ますために、ペールは旧友藍川清成の娘金江と結婚させ、一緒に留学することを勧めました。新婚の二人を両家で援助することになったのです。大正14年6月に日本郵船の白山丸で渡仏しました。パリ(ソルボンヌ)大学のシミアン教授の研究室に入り、デュルケーム学派の実証的社会学(経済学等)を学びます。専門は貨幣論に取組みました。パリの文化に眩惑され、学問だけでなく再び演劇・音楽・美術・文学にも打ち込みました。16区のボアロー街48番地のボングラン夫人のパンションに下宿しました。このパンションにはアカデミシアンのベルソール(ベレソール)氏が止宿していたことも一つの運命と言えます。親日家のベルソール氏はバルザックの研究家で、フランス文学を教えられ、文学者になりたいという願望が再発したのです。文学者が社会から尊敬されていることも知りました。詩人のポール・ヴァレリーに会い、作家のアンドレ・ジッドや哲学者のベルクソンにも面会しました。演劇人ではルイ・ジュヴェ(ジュウベ)、デュラン、ピエトフ夫妻、ガストン・バティ、ララ夫人、マリ・ベルなどと親しくしました。石川三四郎氏の紹介状でアナーキストの学者ルクリュ家を訪ね、家族的に親交しました。身体的な無理で、肺炎となり、ブザンソン博士から肺結核と診断されました。当時、結核は死病でした。プヌムも効かず、高原療養所で闘病することになり、まずスイスのコー、レーザンを見て回り、スイスフランが高いので、フランスのエーン県オートヴィルの高原療養所(デュマレ博士)に入所し、ホテル・レジナの四階の一室に収容されました。ここで一冬闘病をしましたが、二人(四人)の学生と組になって闘病したのです。この中に天才的な科学者ジャック・シャルマンが居て、大自然の神を教えられ、作家になることを勧められました。読書が許されるようになると、ヴァレリーとジッドの書物をヴラン書店から購入し、ベルソール先生からバルザックを読むことを勧められました。「私は闘病中にフランス文学のクラシックを殆ど全部読んだ。バルザックよりスタンダールに心をひかれた。問題になっている小説も熱心に読んだ。時には一日一冊読みあげるというような、むさぼり方だった。その頃には私の心には創作こそ若い日の夢の実現であり、自己を発展させる仕事であり、生涯かけて悔いない仕事であるという考が、次第にかたちづくられて行った。」(『神と死と冨と』)と書かれているように、この闘病によって、作家へと生まれ変わったのです。この療養所で書いたフランス語の添削をフレーベル(フーベル)夫人にしてもらいました。また夫人が結核療養をしていた若い作家ケッセルに出会い親しみました。日本を題材にして長編小説を共作しようとけしかけられ、プルーストの大作を紹介されました。昭和年の春に退所してパリで口頭試問に応じていて、結核が再発しました。それで、スイスのレーザンの高原療養所「希望」に入り、T博士の診療を受けました。秋に退院と日本への帰国が許されました。イタリー・ギリシャの旅もして無事に日本に帰国すること出来ました。 帰国後に雑誌「改造」の懸賞小説を知り、短期間に創作した中編小説『ブルジョア』を応募し、幸いに一等に当選し千五百円もの賞金を得て、作家としての創作活動を始めました。『ブルジョア』は、コーを高原療養所に虚構して、国際的な登場人物を簡明な文体で創作したものです。モダンな作品として好評されました。正宗白鳥、三木清などにも評価されました。

 この『ブルジョア』は、芹沢光治良氏の処女作と言われ、自分でも「処女作の『ブルジョア』」と書いています。ところが、一高の校友会誌に発表した「失恋者の手紙」を処女作だと言う人もあり、芹沢氏自身もこの作品を処女作であるとも言っていました。このことを最晩年に、季刊「リテレール」の特集「旧著再読」に求められて「一高時代に書いた処女作の思い出」の一文を寄稿しました。熱心な若い読者二人から、処女作はどちらですかと質問されたことから、「失恋者の手紙」を回想しているのですが、この題から芹沢氏は、この作が処女作であると暗に認めていると思います。それで私は、「失恋者の手紙」を処女作とし、『ブルジョア』を出世作だと確定しています。〔平成28(2016)年7月識〕

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2016年09月15日

文学評論 連載「芹沢文学講話」D 芹沢文学研究会 代表 小串信正


  芹沢光治良氏の留学・闘病の謎

 芹沢光治良氏は、大正1417日にペール石丸助三郎氏の勧めで、愛知電鉄社長藍川清成氏の次女金江(女子英学塾[津田塾大学]卒、23)と結婚して6月10日にパリのソルボンヌ大学留学に出発しました。結核に倒れて闘病し、昭和3年1113日に留学から帰国したのです。この4年半は、学者になることを諦め作家になることを決断して創作の道を歩き始めたので、人生の最も重要な期間であったのです。ところが、芹沢文学の集大成である大河小説『人間の運命』(16)には、この期間が空白になっているのです。最初の発想〔注/「孤独の道」の冒頭の注〕の「その四年半、外国で次郎がどんな風に暮したか、異質の文化にはじめて接して、どんな影響をうけ、どんなに成長したか、この『人間の運命』は日本を書くことを意図するから、その外国生活には意識して触れないことにする」ということから、第一部と第二部の間の4年半のことを敢えて書かなかったのです。この注には「しかし、『人間の運命』という大伽藍のような建築が完成したあと、なお作者に寿命が残るような幸運が恵まれたならば、『人間の運命』の別冊として、次郎の留学生時代や石田の外国生活を、ヘミングウェイの『移動祝祭日』のように書きあげるばかりでなく、次郎の幼年時代をも書き上げて、大伽藍の門か塀のようなものにしたい所存である――」とも書いています。「次郎の幼年時代」は第巻「次郎の生いたち」として書き、「石田の外国生活」も、第16巻「遠ざかった明日」などで書き上げたのですが、「次郎の留学生時代」は書かれないままに終わりました。芹沢氏としては、この4年半のことは、中期三部作『孤絶』『離愁』『故国』や長編小説『巴里に死す』などに書いているからという思いがあったと思います。ですから、大河小説『人間の運命』の別冊として、『孤絶』『離愁』は必ず付加すべきだと私は思います。

 この4年半の留学・闘病の期間には、不思議と多くの謎があるのです。最初の自伝である『神と死と冨と』に留学の出発を「大正十五年の春」と書いていますが、勘違いでしょう。神戸からマルセイユまで乗った船は、多く白山丸と書いていて疑うことは無かったのですが、最後の自伝『わが青春』に、「私は大正十四年五月中旬神戸出帆の伏見丸で渡仏した」と書いているのです。伏見丸は大正3年に竣工し、白山丸は大正12年に竣工したので、二つとも乗った可能性はあります。これまで、白山丸と書いたが、実は伏見丸であったというのでしょうか。『人間の運命』の「孤独の道」の夢で乗ろうとしたのは伏見丸です。 また、昭和3年10月にマルセイユから乗船した船は、アンドレ・ルボン号と言われていますが、『故国』や『わが青春』では、ルブラン号と書いています。往きも帰りも、乗船の船名が、どれが正しいのかを確定出来ていないのです。

 パリ16区ボアロー街48番地のボングラン夫人の家に下宿したのですが、同居していたアカデミシアンでバルザックの研究家は、最初はベレソール氏と書いていましたが、後にはベルソール氏に変わりました。これはフランス語の読み方の違いです。パリでは学問だけでなく、音楽や演劇、そして文学などに熱中しました。長女万里子が昭和日に生れ、フォンテンブローの森の国際託児所(ドリノ夫妻運営)に預けます。月に無理して研究論文を完成し、シミアン博士の研究室で発表していて重い肺炎となり、肺結核と診断されました。4月末までブザンソン博士・スクリープ内科主任の治療を受けました。結核闘病がどのようになされたのか、芹沢氏が書いていることに記憶違いによる混乱があり、創作では事実と違っていたりするので、その経歴が確定されていないのです。7月からヶ月間、スイスのコーのホテル・マリアに滞在しました。ところが、ここには『ブルジョア』に書いているような高原療養所[サナトリム]は無かったのです。金江夫人と同行して、ダボスやレーザンなどの高原療養地を訪ねますが、『孤絶』に「レーザンでもサナトリウムの医者にはみせなかった」と書いているように、入院せずスイスのサナトリウムを探していたのです。シャモニー、サン・ジェルヴェ・レ・バンの温泉にも滞在します。10月末には金江夫人はパリに帰ってしまいます。芹沢氏はアヌシーのシミアン博士の別荘を訪ねて御夫妻と一緒にパリに帰ります。これらの旅は、絵葉書などにて裏付けられます。新学期の研究室で研究報告をしますが、再び血痰が出るようになり、本格的にサナトリウムに入ることになります。スイスフランが高いこともあり、フランスのエーン県オートビルのデュマレ[ドマレ]博士の療養所に行きます。療養所が満員なので、ホテル・レジナに入所して療養を始めます。ここで、四人の大学生と闘病戦友になりますが、不思議なことに、後に大自然の神の信仰や作家への転身に決定的な影響を与えた天才的な科学者ジャック・シャルマンと思われるパリ大学の学生は『離愁』や後の自伝には全く書かれていないのです。これが、最大の謎と言えます。もし、ジャック・シャルマンが創作的な人物で虚構とすれば、自作の墓碑銘で「科学者の畏友ジャックに/大自然の法則と神の存在を」と刻すことはないと思われますから、やはり四人の他に実在の天才的な科学者と闘病したものと思われます。昭和60(1985)月から月に静岡新聞に連載した最後の自伝『わが青春』には、三人の学生と闘病したとあり、ソルボンヌ大学の歴史科三年のジャン・ブルーデル、ポアチエ大学の経済三年生のモーリス・ルッシーと共にパリ理科大学研究室のジャック・シャルマンの名前が出てきます。大自然の神の事、作家への転身の勧めなどが詳細に書かれています。この自伝の最後は「若い日にともに死と闘ったジャックとモーリスとジャンに連絡がついたのは、八十二歳の時だった。三人とも健康で好きな仕事を選んで佳き晩年を迎えて、私が作家になったことを喜び、誇りにしている。」と結ばれています。昭和61年から逝去する平成5年まで書き続けた神の書・天の書の連作には、ジャックは既にオランダで死去していましたが、実相の世界で天の将軍に代わってリードしてくれる人物として登場します。

 このオートビルのホテル・レジナで昭和11月から昭和月までの7ヶ月間の一冬、厳しい闘病をして結核を克服したのです。自伝『神と死と冨と』に「私は闘病中にフランス文学のクラシックを殆ど全部読んだ。バルザックよりもスタンダールに心ひかれた。」「その頃、オートビルの高原サナトリウムで、若い作家ケッセルを識った。親しくした。」「私に何でも書くようにと、おだてたことだ。日本の題材で共作しようと、けしかけたのもケッセルだった。彼のすすめで、プルーストの大作を識ったが、私は現代作家では、ジードとシャルドンヌをもとめて読んだ。」と書いています。また、『離愁』に書かれているようにホテル・レジナでフーベル夫人と親しみ、試作した仏文を添削してもらったのです。ところが、『文学者の運命』では、スイスのレーザンでの療養中にフーベル[]夫人や作家K[注/内容からケッセル]に会ったように書き、『人間の運命』でもケッセルに親しんだのは「スイスの高原」と書かれています。これは芹沢氏の記憶違いと思われます。創作は自伝と違っていても良いのですが、『離愁』には、オートビルから月にパリに戻り、10月のルブラン号に予約したあと、夏期をユリアージュ温泉の上のサンマルタンに滞在して避暑したことにしていますが、芹沢氏は再発を恐れてスイスのレーザンの療養所に入って、数ヶ月闘病したものと思われます。『わが青春』には、「五月から月中旬まで、スイスのレーザンで孤独な死闘をした」と書いていますが、絵葉書「マリーに殘す言葉」(二八年六月十三日、巴里)によると、この日に椎名氏の依頼でバンブ街番地の佐伯祐三夫妻を訪ねて瀕死の天才画家を激励しています。ですから「五月から」というのは間違いです。パリ郊外のコルネリッサン[ルクリュ]夫人の家に妻子が下宿していたので、5月から6月は、この家で一緒にお世話になったようです。レーザンのサナトリウムでヴォチェ [V・T・]博士の診療を受けたのです。戦後に、ローザンヌの世界ペン大会に参加した時にレーザンのサナトリウムを再訪し、短編小説「再び『ブルジョア』の日に」を創作しました。

 帰国の前に、イタリアやギリシャへの一人旅をしたようです。フローレンスでブザンソン博士に再会します。『わが青春』によるとギリシャ旅行はしていないように書いています。自伝『私の青春時代』には、イタリア・ギリシャの「二ヵ月の旅」をしたとあります。帰国の船で、アメリカの劇作家ユージン・オニール夫妻と親しくなったことは本当のようですが、上海でジャック・ルクリュに連れて行かれて会った中国の著名な作家「ロジュン」が魯迅であるか、また本当に会ったかは不明です。この頃に魯迅が上海に住んではいましたが…。

 もう一つの大きな謎は、昭和1113日に帰国したのに、どうしてか昭和4年11月に神戸港に帰着したと思い込んでいた事です。この1年間の空白はなぜ起こったのでしょうか。まず、留学への出発が、最初の自伝『神と死と冨と』(1955年8月5日発行)には「大正十五年春であった」と書かれています。自伝『私の青春時代』(1967年5月25日発行)には「私は大正十四年の晩春、日本を発って、フランスへわたった」と書いています。出発は晩春でなく6月です。

出世作『ブルジョア』が、何時、どのように創作されたかも謎です。『わが青春』には、「『改造』に懸賞小説の応募締め切りの広告が目についた。百枚以内で締め切りは十一月末だとのこと」「締め切りまで二週間しかない」と帰国してすぐに上京し、麻布の石丸氏の下宿で「九日で八十九枚書き綴って」創作したように書いています。日数や枚数は詳細正確ですが、応募まで1年間の猶予があったのです。石丸邸で短期間に執筆したのでしょうが、本当はどうだったのか不明です。『わが青春』では、帰国が昭和年になっていて、中央大学の講師になったのも昭和月からで、「講義をはじめた翌月、雑誌〈改造〉に、私の『ブルジョア』が一等に入選して」と書いています。講師になったのは、昭和月からのように思われますが、未調査です。〔平成28(2016)年4月識〕

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2016年09月14日

文学評論 連載「芹沢文学講話」C 芹沢文学研究会 代表 小串信正


  芹沢光治良氏と苦学・向学

 芹沢光治良氏は、自伝を多く書いています。『神と死と冨と』「私の青春時代」「捨犬か雑草のように」「わが青春」などがあります。これらに繰り返し書かれているのは、貧困化と苦学の幼少・青年時代のことです。この苦学の忍耐は、向学心による人間形成の足跡でもあります。芹沢文学の大きな魅力がここにあります。今回は「苦学」「向学」について講話します。

芹沢光治良氏は、我入道の津元[網元]の次男として生まれましたから、中学やそれ以上の進学も十分に可能でした。しかし、両親が天理教に入信し、祖父のリュウマチや父の悪性ひぜんによる重病を癒されて家族や一族でも受け入れたのですが、明治33年に両親が財産を処分して家を出て、宣教師の道を歩むことになったので、芹沢家は零落してしまいました。祖母に懐いていた次男の光治良は祖父母の実家に残して行ったのです。祖父の不満は光治良に辛く当たることになりますが、祖母の愛や信仰に育てられます。幼少から神童と言われる程で、近くの寺子屋の師匠に養子に求められましたが、祖父が断ります。また上香貫に別荘のあった石丸助三郎氏にも養子の話しがありましたが、纏まりませんでした。楊原小学校に入学しましたが、我入道の子供と同じように、下駄が減らないように途中は裸足で通い、学校に着いてから足を洗って下駄を履きました。漁の出来ない冬の期間には弁当を持って行けずに、昼食時間に外に出て井戸の水を飲んで我慢するしかありませんでした。家では全く勉強しませんでしたが、学校で全て覚えて優秀でした。しかし、祖父の命令で漁師にするために五年生の夏休みから三吉叔父の船に乗せられて沖に連れて行かれます。幼児の時に池に落ちて死にそうになったこともあり、水を恐れ、生臭い魚の臭気にも耐えられず、いつも船酔いしました。祖母や叔母の提案で、町の呉服屋や菓子屋の奉公に出されそうにもなりました。代用教員の影響や兄真一氏の中学入学もあり、中学への進学を念願します。天理教の神に熱心に祈りますが、学費は恵まれず、親類[浜の家]の郡会議員に相談すると四人の住所を教えてくれました。丁寧に手紙を出したら、月になって海軍の軍人[実は父に助けられ、妹とみの夫となった仁藤金作氏]から、月に三円の援助をしてくれることになり、受験勉強をしていませんでしたが、沼津中学に三番で入学出来たのです。苦境を切り開いたのは光治良少年のひたむきな向学心に由ります。志が有れば助けてくれる人がいるもので、扉も開かれるものです。漁師にされる「宿命」を克服して、中学に進学出来たのは、光治良少年の「運命」を大きく切り開いたのです。

 芹沢光治良氏は、中学に進学したことで村八分にされたことは、先に書きましたが、叔母に励まされ、教会の会堂の隅で勉学しました。辞書が買えなかったので英語や国漢の成績が少し悪かったのですが、二年生から成績が二番となり特待生として二円の授業料が免除され、級長にもなりました。しかし、弁当を持って行けないことは続き、体力が衰えていて、体操で雨の中を無理に走らせられ、四年に進級する試験の直前に風邪から乾性肋膜炎になりました。この時に天理教の教会長が来て、中学を退学するように言われたのに反発して、天理教から離れました。文芸部の委員となり、学友会報などへ優れた作文を発表しました。皇太子[のちの大正天皇]行啓記念館が完成して、図書室係となって読書し、文学書を愛読するようになりました。有志[市河彦太郎・橋爪健・北側三郎等]と同人回覧誌を刊行したりもします。図画教師の前田千寸先生から雑誌<白樺>を借りて読み、フランス文化・文学への眼が開かれ、後のパリ留学への夢が植えつけられました。大正年の月に「難船」と題して演説し一等賞となり、沼津中学第十一回生として卒業しました。中学の年間、日記を書かされ提出しましたが、それを読み続けた砂崎徳三校長から、学資を貯めるために、沼津小学校の代用教員を一学期やってから[二学期分の給料を貰い]、一高への受験勉強をするために原町の豪農植松家に住込み家庭教師をすることを世話してもらいました。植松家の待遇で体力を回復し、夫人の優しい心遣いに母親の愛を知りました。中学でも援助してくれる人々に出会え、一年後に一高文丁[仏法科]に合格します。一高に入学して、夏休みなどで帰省すると歓迎してくれました。この植松家の家をモデルにして架空の石田家[先輩の市河彦太郎氏を石田孝一のモデルにして]を虚構して、森家と対にして大河小説『人間の運命』の土台にしたのです。

一高には天下の秀才が集い、多くの学友・親友が出来ました。寮生活は素晴らしいもので、演劇・音楽・絵画なども楽しみましたが、次第に学資に窮するようになりました。砂崎校長の紹介で、工場経営で成功した月島の安生家[安生慶三郎・すゑ夫妻]から学資の援助を受けました。その娘鞠さんとの付き合いが始まります。寮の食費が払えず、食堂では食べずに空腹で我慢したこともあり、学友から援助されたこともありました。 有島武郎氏の「草の葉会」にも参加し、文学にも目覚めました。二年生で文芸部委員となり交友会雑誌に短編小説「失恋者の手紙」を発表しました。この処女作が縁で、一年後輩の川端康成氏を知ることになりました。またフランス語の教師石川剛先生からメリメの小説『危険な関係』の下訳を依頼されたり、大学では仏文科に進学することを勧められました。翻訳のアルバイトや家庭教師も余りなく、慶応大学生Sと知り合い、毎週の土曜日に銀座の洋食店で御馳走になり、英作文の宿題をしてやったりもしたようです。三年生の最後の学期となり、授業料を滞納していて卒業試験が受けられなくなる窮地になりました。寮の便所に、たまたま捨てられていた国民新聞に船成金の緒明圭造氏が貸費制度を設けたという記事を見て、藁をも掴むつもりで品川の御殿山に訪ねると、明朝の7時前に来るように言われます。雪の降る翌日の早朝に再訪して、緒明氏に援助を訴えました。「伊豆の学生のみだ」と断られますが、一心にお願いすると、「我入道は駿河で近いので出してやろう」いうことになり、とりあえず十円紙幣三枚を貰いました。この金で高校を卒業して大学へ進学することが出来たのでした。

芹沢光治良氏が如何に苦労して高校を卒業したかが知られます。中学・高校の8年間は苦学の連続でしたが、その逆境が「忍耐」と「希望」の芹沢文学精神を培ったのです。もしも幼少の時に石丸家の養子になっていたら、こんな苦学を味わうことは無かったでしょう。石丸助三郎氏[田部直道のモデル]には一高生の時に再会し、麻布の家に来るように求められましたが、緒明奨学金[毎月二十二円]が保証されたので、やっと広尾町の石丸邸の離れを借りて下宿させてもらいました。養子にはなりませんでしたが、ペール[魂の父親]として生涯の親交を続けました。大学に通いながら外務省条約局の翻訳アルバイトもして、ようやく経済的な困苦から抜けられました。安生鞠さんとのプラトニックな恋愛を続け、図書[経済学書や西田幾多郎の『善の研究』等]を貸したりもしました。大学の研究室では糸井助教授の指導を受け、フランスのデュルケム学派の経済学・社会学を研究し、マルクス・レーニン主義には批判的で、プルードン・バクーニン・クロポトキンなどのアナーキスト[無政府主義という日本語訳は良くない。社会的自由主義]に共鳴しました。しかし、安生氏には社会主義者と誤解されました。その誤解を解きたいこともあり、学友の菊池勇夫君に誘われて高等文官試験の受験勉強を石丸別荘・近藤邸・青龍寺・松蔭寺等に合宿して、行政課に合格しました。ここでも向学心を大いに発揮したのです。

大正11月に東京帝国大学を卒業し、農商務省に入り高級官吏の道に進みました。農政課[石黒忠篤課長・小平権一室長]で小作争議調停法の制定等に関わり、夜間にドイツ語も学習しました。大正12月に、文通の交流を続けていた安生鞠さんがドイツに留学しました。しかし、日に関東大震災が起こり、翌年の2月に我入道の火災で三吉叔父の家が焼失してその再建費に貯蓄の全てを贈ります。秋に農林事務官に任官されましたが、畜産局から山林局へ配属されて、12月に秋田営林局に赴任します。ところが、愛していた安生鞠さんがドイツで留学中の中山医師と婚約[翌年に帰国して結婚]したことが知らされます。失われた人安生鞠さんは、理想化されて、後に創作されることになります。失恋の苦悩の中で、官吏にも失望していたので、退職[賞与二百円]を決意します。退職を慰留され、嘱託扱いで、憬れのパリ[ソルボンヌ]大学へ留学します。糸井助教授の遺志を継いで、パリ大学のシミアン教授等の指導を受けることにしました。石丸氏は失恋を聞き、旧友藍川清成[弁護士、愛知電鉄社長]の娘金江さんと結婚して、一緒に留学することを勧めます。石丸家と藍川家で援助することになりました。大正1429歳のフランス留学は、学者としての新たなる向学心に由りますが、ここでも「運命」が大きく変わることになります。

パリでは16区ボアロー街48番地の家に居住し、シミアン教授の研究室に入ります。この家でバルザック研究者ベルソール氏に出会い、多くの著名な人々と交際します。一高の時以上に、演劇・音楽・美術・文学にも熱中します。昭和月に長女万里子が誕生。月に無理して卒業論文を書き上げたのですが、肺炎で入院し、肺結核と診断されます。プヌモも効かず、フォンテンブローに転居し療養します。本格的な闘病地を探しにスイスのコー、ダボス、レーザンなどを巡廻しますが、スイスフランが高いので、フランスのエーン県オートヴィルの高原療養所ホテルに入所します。大学生3人と組になって闘病生活を一冬続け、結核を克服します。ここで作家のケッセルに出会い、ジャック[シャルマン]の勧めで作家になることを決断して、闘病しながらバルザックや多くのフランス文学作品を精読しました。スイスのレーザンでも闘病しました。

昭和11月に帰国して、中編小説「ブルジョア」を創作し、改造社の懸賞小説に当選します。中央大学の講師も辞めて、闘病しながら作家生活を始めます。「作家・芹沢光治良」が形成されたのです。  〔平成28(2016)月識〕

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