カトリックと芹沢光治良
梶川敦子氏よれば、梶川氏がプロテスタントからカトリックに改宗したとき、「よかった、本当に良かった。僕も、ほんとうはカトリックになりたかったのです」としみじみと言ったという(『芹沢光治良の世界』青弓社、二〇〇〇年)また、「何かの信仰があるか、強いて質かれれば、カトリックの信者だと、答えるかも知れません」「独り静かに己を省み、想う時には、やはりカトリック信者だと、頷くことがあるのです」(『大自然の夢』新潮社、一九九二年)とある。
それでは芹沢光治良がなぜここまでカトリックに近づいたのだろうか?
芹沢光治良がキリスト教を意識したのは、進学しないように当時の天理教団からしつように指導(?)されながらも、結局一高に入学した頃のようです。一高に入学出来た時は、「頭上におおいかぶさっていた、肋膜炎、神、信仰、俄悔などという暗雲が、一度にはれあがったような気がした。」(暗雲はれる −「神の死と宮と」)のであった。
また、「人間の運命」を参考にすると兄一郎との会話で「僕はキリスト教も知りたいんです。その上で、信仰を卒業するなら、したいなあ。」とあります。
そして芹沢とキリスト教との関わりは、大正14年のフランスに始まる。
無信仰になってから、ヨーロッパで数年暮らした。その間に、私はカトリック教を知った。それはヨーロッパの文化と生活に及ぼしているキリスト教の影響に驚いて、キリスト教を知ろうと努力したからでもあるが、フランスで親しくした人々の多くが、カトリックの熱心な信者だったからにもよる。とくに恩師もそうだが、パリで生まれた長女を育ててくれた家庭がカトリックで、この子をどうしても受洗させないではおかない熱意を示して、私にカトリックを教えた。当時私は胸を病んで遠く離れて療養していたから、虚しい心で、恩師やその人々の愛情に委ねて、子供の受洗を承諾した。その人々は、子供の受洗がやがて私一家をも改宗させるものと期待したようである・・・・
(我が宗教−『幸福への招待』)
パリでの生活は、カトリックの雰囲気の中にあって、当時死病と恐れられていた結核に罹る中で、自らカトリックの神を信仰の対象として求めた姿勢はない。
帰国して、芹沢光治良は、病床にいる母親との会話でキリスト教の神と天理教の神にふれる。
「キリスト教の神さんと天理教の神さんはどう違いますか?」という問いに対して「宇宙を動かす力は、一つしかない筈ですから・・・違わないと思いますが、ただ、日本人とヨーロッパ人とは、歴史や民族性が違うので、神に形をつける時、ちがった属性を付加したために、ちがったようになったのかもしれませんね。」(人間の運命)
「ただ日本人とヨーロッパ人とは・・・」以下のところは、キリスト教の神とは、同じにならないと思います。
芹沢光治良はカトリックの神の近くまで行くのですが、教団での幼児からの経験でカトリックの神まで行きつかないのではないでしょうか?これは私が理解出来ない部分でありますが、カトリックについて詳細に語っているところがありません。状況証拠はありますが、物的証拠がないということです。
これも状況証拠ですが、引用します。
(我が宗教−「幸福への招待」)「戦争中、物の書けない毎日を、私は聖書と幾種類ものキリスト伝を読むことに過ごした。きざっぽい言葉だが、そうでもしなければ人間性に絶望しそうだったし、生きて行く意義がなさそうだったから。もし何か宗教に帰依するとすれば、カトリック教に改宗すると思ったくらい、聖書と多くのキリスト伝は、私に深くカトリックについて深く教えた」
芹沢光治良が呼んだキリスト伝は、モリヤックの『キリスト伝』、ルナンの『キリスト伝』、ダニエル・ロップスの『キリストとその時代』です。
これにヒントが隠されているかもしれませんね。
これは、「我が宗教」(『幸福の招待』より)で書いているように、戦争中は聖書やキリスト伝を多く読み、それと同時に天理教の教祖の書き残したものを精読して、中山みきという偉大な人間像にふれ、その良さを再発見した。しかし、芹沢教団の欠点も知っているので、抜け出た天理教には戻れない。
そこで、『人間の運命』第三部で、教会は建物ではなくて、目に見えないものだと悟るわけです。
私のカトリックについての理解不足が、原因だと思います。6月15日のマグノリアでは、ここのところを勉強していきたいと思います。
投稿者: 管理人 日時: 2008年06月03日 06:10 | パーマリンク | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年06月12日
神谷氏の講演楽しみに待ちます。3
カトリックとプロテスタントはどう違うか?
この短い話しにカトリックとプロテスタントの違いが書かれています。
ある日、隠れキリシタンのお婆さんがプティジャン神父の教会にあらわれて三つの質問をしました。その内容は次のようなものでした。
「神父さま、あなたはローマのおかたから日本へ派遣されたのですか」
「はい、そうです。私はローマの教皇きまから日本へ派遣された者です」
「お子さんがたを見せていただけないでしょうか」
「それはできません。カトリックの司祭は家庭をもっていないからです」
「すみませんが、もう一つだけおたずねしたいことがごぎいます。神父きまの教会には
聖母マリアのご像がありますか」
「ございます。どうぞ教会に入ってご覧になって下さい」。
プティジャン神父がこのように答えると、お婆さんは、次のように言ったそうです。
「神父さま、私も神父さまと同じ心をもっています」。
このお話でわかるようにカトリックとプロテスタントは上記の違いがあります。この違いが実際にはどう違うか?キリスト教を信仰しない私達には、@ローマから派遣された意味やAマリア様のご像、B司祭は家族を持っているか、いないかということが、信仰の世界でどのような意味合いがあるか、ここで簡単にまとめたいと思います。
@カトリックは教会が「唯一」であり、全世界で広がったカトリック教会は、何処でも同じ教会であるわけです。全世界のカトリックの信者たちは同じ事を信じ、同じミサを受けることが出来、同じローマ教皇の指導の下におかれているということです。同じミサを受けれると言うことですけど、プロテスタントには「ミサ」という儀式(秘跡)はないそうです。しかし、クリスマスではプロテスタントはやっています。
Aマリア様のご像 カトリックもプロテスタントも教会の建て方は似ていますが、違う所もあります。カトリックの秘跡は七つあります。洗礼、堅信、聖体、罪のゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻があります。これらを、プロテスタントは 洗礼と堅信、洗礼と聖餐を除いて、認めていません。聖体の秘跡を認めていないわけですから、カトリックの教会では聖ひつ(御聖体が安置されている祭壇のそばの小さな箱)がおかれており、信者は一日中キリストを礼拝できる。プロテスタントは、聖ひつはなく、マリア様とかその他の聖人の像もありません。十字架も二本の棒で作られたもので、その十字架にキリストの像もつける習慣もありません。
B司祭は家族を持っているか。
本質的な相違点は、カトリックの見解では、司教または司祭とは信者の霊的な世話をするために特別の「秘跡」(叙階)を受けた者のことですが、プロテスタントの見解では、牧師は信者の霊的な世話はしますが、他の信者とは別の「秘跡」を受けた者とは理解しません。カトリックの司祭が結婚しないというのは、キリストの命じたことではありませんが、相当昔からほとんどすべてのカトリック教会で習慣になってきたことです。
どれくらい昔かというと3〇〇年頃!です。スペインのエルウィラで開かれた教会会議の決議において、きらにその後、ローマ教皇と公会議によって、司教の結婚は禁止されることになりました。
今、読み返して見てこれがカトリックをとらえているとは言い切れないと思います。ただ、私が抱く疑問、「芹沢光治良がなぜカトリックに向いたか?」もう一度ここで考えて見たいと思います。
「マルティン・ルターは、当時、教会にあったさまざまな乱用を訴えただけではなく、ローマ教皇の権能も否定しました。彼は人間が救われるには神の恵みとキリストを信じる事がどうしても必要だが、堕落したローマ教会のような組織は、人間に救いを与えるどころか、むしろ妨げるものと教えたのです。ルターの強調した「聖書のみ」「恩恵のみ」と「信仰のみ」という言葉は、目に見える教会は不必要であることを示しています。・・・・真の教会とは、目に見えない信仰によって結ばれた信者達のことであると主張します。」
「カトリックとプロテスタント」 ホセ・ヨンバルト より
ヨンバルト氏がプロテスタントについてこのようにまとめています。このまとめを読むと、芹沢光治良の作品を読んでいるとカトリックに近づく事は、あり得ないと考えてしまうのです。
ただ、先を読み続けると、プロティズムの「危険性」に気づいたというのが理解できる記述があります。
「プロテスタントの教会の理解はこのようなものであるため、当然、キリスト教の教えや聖書解釈などについて疑問が生じたときは、その解決は各自の良心だけに任せられるわけです。つまり、信者を拘束するような教会の「権威」は認められないのです。この意味においては、個人の良心というものが非常に重視されることになるわけです。それと同時に、プロテスタントはキリストに.よってつくられた目に見える教会は認めませんが、人間によってつくられた目にみえる教会は数多くあることを認めます。このような諸教会の組織は、人間の意志によってつくられたものですから、現代国家制度と同じく、信者の意志に基づくもの、すなわち 「民主主義的な」制度としてとらえることもできます。
これに対して、カトリックの立場から考えますと、教会は非常に違った性質をもつもの
となります。信仰と聖霊の働き、すなわち目に見えないものは最も大事なことですが、し
かし目に見える人間となった神(キリスト) の救いの業をすべての人々に与え続けるために、キリスト自身はただ一つの目に見える「教会」を作ったというのが、カトリックの
教えの基本です。その構成メンバーはすべて人間であり、歴史的にみると、この自に見え
る教会に、人間によってつくられたものが多くつけ加えられたこともありますが、基本的
な構成はあくまでキリストの直接意志に基づいており、人間はこれを変えることができな
いと理解されています。教会とは、キリストの定めた役職制度(教皇、司教、司祭)をも
つ「信者の集まり」であると言、つてもよいでしょう。教会の存在理由は、キリストによって教会に任された任務と同様のものです。」
とあります。
確かに、芹沢光治良が指摘したプロティズムの「危険性」は、各カトリックでない様々な流派(これは正確でない書き方ですが)は創立した創立者独自の考え方、解釈が反映してます。
日本には135以上の異なるプロテスタント教会があります。ということは、135以上の異なるキリスト教の解釈があるいうわけです。
まもなく、6月15日(日) 午後2時 講演会 「芹沢光治良とカトリシズム」 講師 神谷光信先生 聞くことが出来ます。楽しみです。
資料を図書館から借りましたが、鉛筆に沢山線を引いてあり、消しゴムで消しながら読んで思いの外時間がかかりました。
投稿者: 管理人 日時: 2008年06月12日 23:51
2008年06月12日
神谷光信氏の講演を楽しみに待ちます。(2)
posted by セリブン at 23:51| Comment(0)
| 芹沢光治良関係の本
2007年10月03日
芹沢光治良研究の再案内
「芹沢光治良研究」の鈴木吉維氏からメールがありました。「芹沢光治良研究」への注文は。鈴木氏宛にして下さい。
金額は2000円+送料300円=2300円です。送料は冊数に関係なく一律になります。
代金は郵便小為替で自宅宛に送っていただきます。
ただし、HPに鈴木氏の住所を載せるわけにはいかないので、HPを見た方はメールで注文してください。愛好会の方は住所録で私の住所がわかります。メールあるいは郵送どちらでも結構ですという事です。
今日は、10月6日(土)、7日(日)国立女性会館の講堂に吊す看板が出来上がりました!!じっくりとした重みです。
私の部屋には、大きな白い紙に当日持って行くものを書き足しています。忘れ物をしないようにしています。
あと少しで全国の愛読者の方と会えます。
投稿者: 管理人 日時: 2007年10月03日 22:42
金額は2000円+送料300円=2300円です。送料は冊数に関係なく一律になります。
代金は郵便小為替で自宅宛に送っていただきます。
ただし、HPに鈴木氏の住所を載せるわけにはいかないので、HPを見た方はメールで注文してください。愛好会の方は住所録で私の住所がわかります。メールあるいは郵送どちらでも結構ですという事です。
今日は、10月6日(土)、7日(日)国立女性会館の講堂に吊す看板が出来上がりました!!じっくりとした重みです。
私の部屋には、大きな白い紙に当日持って行くものを書き足しています。忘れ物をしないようにしています。
あと少しで全国の愛読者の方と会えます。
投稿者: 管理人 日時: 2007年10月03日 22:42
posted by セリブン at 00:00| Comment(0)
| 芹沢光治良関係の本
2007年10月02日
芹沢光治良研究 鈴木吉維著 おうふう
芹沢光治良研究 鈴木吉維著 から出版されます。その詳細がわかりました。
鈴木吉維氏は10月8日(祝)に鼎談講師として参加されます。
10月8日 09:00〜12:00
講演会 「近代文学における芹沢文学の位置」 成蹊大学名誉教授 羽鳥徹哉
鼎談:羽鳥徹哉(成蹊大学名誉教授) 鈴木吉維(会員) 小串信正(会員)
参加受付中です。池田までご連絡下さい。
芹沢光治良研究 鈴木吉維著も予約受付中です。おうふうにはHPから注文して下さい。
四大判 並製・カバー装 予258貢 予価2.625円(本体2,500円)
lSBN978−4−273−03495−5C3093
目次を紹介します。
序文 井上 謙
芹沢光治良論序説
一文学的人生とその課題
習作期から作家への道
『学友曾報』(静岡県立沼津中学校)・
『校友曾報』(第一高等学校)『自分達』
ブルジョアー死病との戦い
我入道一社会派小説として
愛と死の書一死の果てにあるもの
巴里に死す一死と再生のドラマ
死者との対話一学徒兵鎮魂
芹沢光治良と中国
草笛一子どもに託す未来
南寺一大同の天女
愛と知と悲しみと一巴金とルクリュ家
神と信仰
教祖様一人聞から神の代理者へ
大河小説の世界
人間の運命一宗教と国家
芹沢光治良と神
神の微笑一樹木との対話
神の慈愛一神の思惑
神の計画一実相の世界と現象の世界
人間の幸福一結婚の理想
人間の意志一神の与えた使命
人間の生命一永遠なるいのち
大自然の夢一天上の世界
天の調べ一自由・平等・博愛
私は、『巴里に死す』論の死と再生のドラマという視点での鈴木氏の論点に興味があります。『教祖様』は人間から神の代理者という視点は、芹沢光治良の取った立場であると考えています。これをふまえて、芹沢光治良と神についての論を読んでみたいですね。
生誕111周年という年に出版されるとは嬉しいことですね。
posted by セリブン at 22:04| Comment(0)
| 芹沢光治良関係の本