seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢光治良と作家: 芹沢光治良文学愛好会

2026年05月16日

高見淳追悼



 弔辞

 日本ペン倶楽部専務理事高見順の霊前に捧ぐ。

高見さん、貴方が日本ベン倶楽部の専務理事に就任したのは国際大会を東京に開催した後の、じみな活動しか出来ない困難な時でした。

 想えばあれから長い間、ペン倶楽部にも、警職法改正反対問題、バステルナーク事件、ケストラー問題お厄介なことが多くご苦労をなさったが、その間、貴方はペン倶楽部を楽しいものにしようと心を砕いていろいろな企画をたて、常に会員に喜ばれたが、又諸外国の文学者との交流と海外からの賓客の接待とに、細かな心を使われ、諸外国の作家にも喜ばれた。それにも拘わらず、貴方はいつもご自分の努が足りないかと、不安そうに理事会でみんなにわびていられた。貴方は東南アジアの作家に多くの友

を持っていられるが、三年前私はロシアとフランスで貴方の消息を熱心に訊く作家に幾人にもあって貴方の友がヨーロッパ大陸に多いことを知った。その時、いつか貴方と築地で一夜をともに語ったフラン人の大戯曲家アシャール君が、もう一度東京かパリで、貴方と語りたいとなつかしんでいたがそれも不可能になった。

 貴方が入院なさる前の月の理事会のあと一緒に帰ろうと、八階の事務所からおりるエレベーターのなかで、貴方はてれた様子で私に囁かれた、「貴方が今していると同じ仕事を、自分もこれから他人の生活をかりてしようとしています」と。あの囁きには貴方らしい私への励ましと「激流』からはじまって、昭和時代を書こうとする貴方の決意が響いていた。

 去る三月三十日に、貴方は病床にあって一時間も、生の問題、信仰の問題、仕事のことを熱心に語られたが、私は貴方とはじめての出合いのような激しい感動を受けた。貴方は病床にあって他人をかりて『激流』を書きつづけることの困難から一先ずご自分の体験した昭和時代を、じかに残そうとして、あの素晴らしい日記を整理し発表なさったのではなかろうか、そして健康になって激流を書きつづけることを希いそれの書き終るまで生命を生かして欲しいと、何かに祈られているようにお見受けした。

 貴方は戦後二回、厄介なご病気にかかり、それを克服して、その度に、作家として新しい境地を拓かれたので、今回も必ず再起して念願の大作を完成できるものと、自他ともに信じておったのに、ああ。

 貴方の『いやな感じ』のフランス訳の完成を私は一日千秋の思いで待った。貴方は「あの下品な俗語がどんなフランス語に変るかしら」と病床でてれながら話していたが、ついにそのフランス本の出版を待たずに貴方は逝かれた。しかし『いやな感じ』のフランス本は、貴方のヨーロッパの友や諸国のペンの倶楽部の仲間のなかに、長く生きつづけることであろう。願わくば、在天の霊よ安かれ。


八月二十日


日本ベン倶楽部副会長

芹沢光治良


◎随筆「弔辞八月二十日」日本ペン倶楽部副会長芹沢光治良 1965年(昭和40年)101日発行の雑誌 <文芸 > 10月号 (河出書房新社発行) 158~159 頁に掲載された作家高見順氏への弔辞。






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2025年12月04日

人物評 「芹沢光治良氏のこと」 遠藤周作

人物評「芹沢光治良氏のこと」遠藤周作 (初出『日本文学全集 19645新潮社「こころの風景なつかしき人々 119961010小学館発行 64~68 1100



芹沢光治良氏のこと


 五年ほど前の冬のことである。その冬、ぼくは巴里にいた。雨の降っている夕方に(町の名も忘れてしまったが)ある人を訪問して、その人の事務所から出て歩道歩きだした時、一人の中年の仏蘭西人につかまった。

「あなたは、日本人ではないでしょうか」

「そうです」

 こちらがそう答えると、人は、おたずねしたいことがあるが宜しいかと言う。

「実は、私はお国の作家、ムッシュー・セリザワの『サムライの後裔」という小説を読んで非常に感動したのだが、他に彼の小説で仏訳か英訳の出ているのを御存知ありませんか?

 彼女にそう言われて、私は首をかしげた。芹沢氏の巴里における出版社はロベール・ラフォンだときいている。しかしロベール・ラフォンに問いあわせろとだけ返事するのはこの婦人に薄情な気がした。日本の小説を愛してくれるこの仏人には日本の作家の端くれとして親切にしてあげるべきであろう。私は紙を出し、文芸手帳をめくって芹沢氏の住所を紙に書いた。

「これが作者の住所です。おそらくあなたが手紙を出されたら、必ず返事を下さるでしょう」

 その婦人はとても嬉しそうに礼を言って去って行った。私も我がことのように嬉しかった。

 「サムライの末裔」「巴里に死す」の仏訳本の題である。私はこれを戦争中によんだ記憶がある。

 芹沢氏の作品に初めて接したのは戦争中、まだ学生の頃だ。新潮社からその頃、昭和名作選集というのが出て、その中には阿部知二氏や芹沢氏の作品がふくまれていた。それから私は氏の作品を少しずつ読みはじめた。そしてその頃は氏は何かきびしい、近よりがたい人のように勝手に想像していたのである。

 私がはじめて芹沢氏にお目にかかったのは自分はやっと小説家になり、「三田文学」の先輩の阿部光子さんにつれられて三宿のお宅に伺った時である。学生時代から氏の作品を読みつづけていた私は、実際にみた芹沢氏と、自分が長い間想像していた氏との間に大きな食い違いがあるような気がした。

 想像の中では芹沢氏は、非常にきびしい顔だちをされた近よりがたい作家だった。

しかし実際にお目にかかった氏はニコニコと笑われ、女性的なくらい優しい声でゆっくりと話される人だった。

 芹沢氏は笑いながら、巴里にいられる令嬢のお話や、一番下のお嬢さまも向うに行きたがって困ります、などと語られていた。このピアノを勉強されている令嬢たちには、後に私も巴里でお目にかかった。

 しかし私はすぐ気がついた。私の空想していた氏と実の氏とは食い違いはないこと、このニコニコと笑いながら、優しく話される氏の内側は古武士のような潔癖さと忍耐心と、それからきびしい精神が存在しているのであって、それは後になって、氏からお手紙を頂いた時、はっきりとわかった。その手紙には、肺ガンの疑いがあったので自分は誰にも言わず耐えていたという一行があったからだ。

 私は氏と同じように仏国に留学し、その仏で胸部疾患に倒れ、その後、帰国して小説家になったという同じような 過程を経てきたためか、氏の作品仏訳までも眼を通してさせて頂いている。芹沢作品集のあと書きも書かせて頂いた。

しかし同じような過程を経ながら、私には芹沢氏のような強い意志、きびしい克己の精神がとてもない。氏の作品を読むたびにこの強い意志ときびしい克己心に慣れのようなものを感じる。

 近頃の芹沢氏はますますお元気のようだ。なども薔薇色でまるで少年のような若々しさを感じさせることがある。今、大河小説にとり組んでいられるそうだが、その完成を待っているのは私たちだけではなく、あの冬の日の歩道で私をつかまえた仏蘭西人のような外国の読書も多いのである。

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2007年07月22日

江国香織と芹沢光治良

 芹沢光治良全国愛読者大会のポスターの校正が終わりました。ただいま印刷中です。次回、7月29日の月例会で、公開します。お楽しみにして下さい。

 2004年に「号泣する準備はできていた」で直木賞を受賞した江国香織は、20代前半に1年間アメリカのデラウェア大学に留学しました。この時芹沢光治良の『結婚』に出会っています。留学中、日本語が読めなくていいやと思っていた江国は、留学して数ヶ月後、ニューヨークの日本の本の専門店を覗き、すごく動揺し、陶然となったそうです。

 日々英語に格闘していた江国は、読まなくても活字を見ているだけで、肌が言葉を吸収してしまったそうです。しかし日本の本といってもニューヨークでは洋書。値段が高く、学生でお金のない江国は、、その場で読んでしまうことにしたそうです。

 芹沢光治良の『結婚』を隅々まで舐めるように読んだ。本屋に座り込んで本を読んだのはあの時だけだと書いています。

 江国香織は恋愛小説、童話的な作品と様々に作品を書いています。いつか芹沢光治良論を聴いてみたいですね。





投稿者: 管理人 日時: 2007年07月22日 06:40
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