弔辞
日本ペン倶楽部専務理事高見順の霊前に捧ぐ。
高見さん、貴方が日本ベン倶楽部の専務理事に就任したのは国際大会を東京に開催した後の、じみな活動しか出来ない困難な時でした。
想えばあれから長い間、ペン倶楽部にも、警職法改正反対問題、バステルナーク事件、ケストラー問題お厄介なことが多くご苦労をなさったが、その間、貴方はペン倶楽部を楽しいものにしようと心を砕いていろいろな企画をたて、常に会員に喜ばれたが、又諸外国の文学者との交流と海外からの賓客の接待とに、細かな心を使われ、諸外国の作家にも喜ばれた。それにも拘わらず、貴方はいつもご自分の努力が足りないかと、不安そうに理事会でみんなにわびていられた。貴方は東南アジアの作家に多くの友
を持っていられるが、三年前私はロシアとフランスで貴方の消息を熱心に訊く作家に幾人にもあって貴方の友がヨーロッパ大陸に多いことを知った。その時、いつか貴方と築地で一夜をともに語ったフラン人の大戯曲家アシャール君が、もう一度東京かパリで、貴方と語りたいとなつかしんでいたがそれも不可能になった。
貴方が入院なさる前の月の理事会のあと一緒に帰ろうと、八階の事務所からおりるエレベーターのなかで、貴方はてれた様子で私に囁かれた、「貴方が今していると同じ仕事を、自分もこれから他人の生活をかりてしようとしています」と。あの囁きには貴方らしい私への励ましと「激流』からはじまって、昭和時代を書こうとする貴方の決意が響いていた。
去る三月三十日に、貴方は病床にあって一時間も、生の問題、信仰の問題、仕事のことを熱心に語られたが、私は貴方とはじめての出合いのような激しい感動を受けた。貴方は病床にあって他人をかりて『激流』を書きつづけることの困難から一先ずご自分の体験した昭和時代を、じかに残そうとして、あの素晴らしい日記を整理し発表なさったのではなかろうか、そして健康になって激流を書きつづけることを希いそれの書き終るまで生命を生かして欲しいと、何かに祈られているようにお見受けした。
貴方は戦後二回、厄介なご病気にかかり、それを克服して、その度に、作家として新しい境地を拓かれたので、今回も必ず再起して念願の大作を完成できるものと、自他ともに信じておったのに、ああ。
貴方の『いやな感じ』のフランス訳の完成を私は一日千秋の思いで待った。貴方は「あの下品な俗語がどんなフランス語に変るかしら」と病床でてれながら話していたが、ついにそのフランス本の出版を待たずに貴方は逝かれた。しかし『いやな感じ』のフランス本は、貴方のヨーロッパの友や諸国のペンの倶楽部の仲間のなかに、長く生きつづけることであろう。願わくば、在天の霊よ安かれ。
八月二十日
日本ベン倶楽部副会長
芹沢光治良
◎随筆「弔辞八月二十日」日本ペン倶楽部副会長芹沢光治良 1965年(昭和40年)10月1日発行の雑誌 <文芸 > 10月号 (河出書房新社発行) 158~159 頁に掲載された作家高見順氏への弔辞。