seri1.jpg unmei6.jpg 全国大会: 芹沢光治良文学愛好会

2007年12月15日

第6回芹沢光治良愛読者全国交流会報告7


羽鳥先生の話は、わかりやすく、少しユーモアがある話しぶりです。その一部をここで公開します。

最初におさらいをします。まあ普通一般的なこれは、近代文学のごく一般的な歴史でこんなふうに私達考えますけね。
 明治の始めから明治の18年までこれは黎明期、夜明けの時代ですね。このころは、前近代的戯作小説、江戸時代風の小説、古いものがずっと残っていましたね。その後、翻訳小説とか、○○小説とか少し新しいものが出てき始めたという時期ですね。それから明治18年から25年、坪内逍遙さんが『小説神髄』というものを書きまして、「小説というものは、人間のありのままを書くものである」と主張なさってありのままを写すという写実主義というものがだいたい主流となります。
 ところが明治23年から34年頃になりますと今度は浪漫主義でしょうかね。ただありのままだけを写すのは面白くない、もう少し理想とか神の心を、その自分の心に持っていてそれを表現したいという気持ちが出てきますね。この時代は、森鴎外、幸田露伴、北村透谷、島崎藤村の『若菜集』という詩とかですね、徳富蘆花、国木田独歩の自然を書いた文章とかそれから与謝野晶子の『みだれ髪』とかこんな事があると思います。この時期が過ぎますと今度はまた、反動が来まして明治32年頃から45年にかけて、自然主義というものがはやりますね。これはもうまた、ありのままの人間の姿を、このありのままもですね、今まで私達が隠していた動物的な面までね、いこうとする、そういう自然主義というのが主流になるわけです。その一方、どうも自然主義だけではおもしろくない、もう少し理知的なものを考えましょうというのもあるわけです。自然主義の代表作では、田山花袋、『蒲団』徳富蘆花、正宗白鳥、理知的な方では、漱石、鴎外です。今度は明治の終わりから大正にかけて、自然主義の反動で今度は理想主義がでてきますね。もう少し理想を持っていいかなければならない。それに反して耽美主義がでてきますね。理想主義の代表者では、武者小路実篤、志賀直哉、耽美主義の方では、永井荷風、谷崎と、こういう方がその頃活躍しています。でー大正の頃からちょっと変わった傾向が出てきますね。新現実主義。これは人間のありのままの姿を書くのだけれども、これはあるフイクションなどを使いながら、人間の愛情の姿を書いていく、それを新現実主義。次はわたくし小説、これはもうフイクションなしで私の経験だけで、そのまま書くということで、それからちょっと変わった前衛芸術、こんなものが大正の5年から15年にかけてですね。新現実主義では、芥川、菊池、・・・。

 こういう具合に「近代文学に於ける芹沢文学の位置」についての講演では、文学史を確認していただきました。このお話だけでも文学について興味を起こさせて下さいました。

                                                           (続く)

投稿者: 管理人 日時: 2007年12月15日 22:31 |
posted by セリブン at 22:31| Comment(0) | 全国大会

2007年12月13日

第6回芹沢光治良愛読者全国交流会報告6

 久しぶりの更新です。いろいろありまして、更新が遅れてしまいました。すいません。

全国大会の報告は、時間をかけて続けていきたいと思います。今回は、10月8日(月)に開催された

成蹊大学名誉教授 羽鳥徹哉による
芹沢光治良文学愛好会30周年記念講演会 「近代文学に於ける芹沢文学の位置」です。

「近代文学に於ける芹沢文学の位置」という演題は、文学の専門家の立場からすると、なかなか難しい内容ではないかと思います。しかし、芹沢光治良の作品を読んでいると、同時代での他の作家との違いを何となく感じてしまうのは、私だけではないと思います。この違いがいったいどこから来るか、芹沢光治良という作家が生まれ、長い執筆期間を通して、最後に神について真摯な姿勢で書いた神シリーズという一連の作品群までの流れを、日本の近代文学では、どのように総括出来るか、何とも知りたく、羽鳥先生にお願いをしました。

 羽鳥先生は講演の前に場内の緊張をゆるめるように、この演題について面白くお話をしてくれました。

「おはようございます。」「芹沢文学愛好会の30周年記念だそうで、どうもおめでとうございます。今回はこの三日間に渡っていろんな行事をおやりになって、私にもですね、もっと早くから来いというお話で、私もなるべくそうしたかったんですけど、えーと、今日のテーマが大変なテーマでね。考え始めたらたいへんだなあ。(会場から明るい笑い)間に合わない。準備が間に合わない。と思いまして、とうとう今日まで来れなかったんです。(笑い)



 という感じで、穏やかな口調で会場を明るくさせて本題に入っていきました。

先生は、この壮大なテーマに対して6ページに渡るレジメを作成していただきました。「近代文学に於ける芹沢文学の位置ということで話しをしろという事でした。そういうことになりますと、位置ということになるとその近代文学の歴史の中でどんなとこにいらっしゃるのかなあと考えていかないといけないわけですよね。それでまず最初に近代文学の歴史のおさらいをしておいたほうがいいかと思ったんですね。」

 ここから私達にわかりやすく近代文学の歴史について話されました。(続く)

 

投稿者: 管理人 日時: 2007年12月13日 22:11 |
posted by セリブン at 22:11| Comment(0) | 全国大会

2007年10月25日

こんばんわ、管理人です。

 全国大会の報告が遅れてすいません。芹沢・井上文学館友の会の原稿をこの数日書いておりました。

あっという間に書き上げたのですが、本文の字数の5倍以上の量になり、これを指定した字数にするのに大変な作業を行いました。これだけカットするには、氷のような意思で冷徹に作業をし、字数に治めました。

 話は変わりますが、芹沢光治良氏は、大正13年(1924) 11月29日30日東京音楽学校第48回定期演奏会でベートーベンの第9の初演を聞いています。農商務省の仕事について触れていますので、29日が金曜日の方だと思います。この演奏会には、寺田寅彦氏や戦後すぐ、東京音楽学校の学長になった夏目漱石の弟子である小宮豊隆が連れだって聞きに来ている。

 この2人は、直接芹沢光治良との関係は、管理人にはわからないが間接的には関係がある。

 小宮は東京音楽学校時代に万里子さんのピアノの先生だったレオ・シロタ氏がアメリカに行くきっかけを作った人であるらしい。

 軽井沢の星野温泉では、寺田寅彦氏がおられた。戦前のエッセイで、東京から来た一高の生徒のレコードコンサートによく聞きに来た娘さんというのは、実名を出さないけれど、寺田氏の娘さんを指しているのが読み取れる。

 話しは、どんどん飛んでいきますが、藤村は、作曲家の諸井三郎との対談で「子供の領分」の楽譜を日本に最初に持って帰ったのは自分ではないかと話している。星野の別荘には、明治の高名な作曲家広田龍太郎氏の別荘が芹沢光治良氏の別荘の近くにあるが、島崎藤村は、「子供の領分」が大好きでしたが、この楽譜をパリの土産と持って帰った相手が「高安月郊君の娘さん」でありますが、この人が広田龍太郎のお嫁さんになった人である。

 

投稿者: 管理人 日時: 2007年10月25日 23:59
posted by セリブン at 23:59| Comment(0) | 全国大会