seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢光治良と音楽: 芹沢光治良文学愛好会

2008年08月31日

レオ・シロタ氏について  

映画「シロタ家の20世紀」
作家芹沢光治良と音楽家の関わりに、まずあげられるのは、レオ・シロタ氏です。シロタ氏は、膨大な曲目をレパートリーを持ち、きらきらと輝く音色と、素朴な、ほとんど潔癖とさえ言い得るほどの解釈が特徴的であり、これらを支えていたのは驚異的な超絶技巧でありました。シロタ氏は、ユダヤ人でロシア領だったウクライナのカミェニッツ・ポドルスキの出身である。たびかさなるユダヤ人迫害と第2次世界大戦中のホロコーストによってシロタ一族は19世紀末、迫害を逃れキエフに移った。そして、日本まで逃れてきた。1929年からは日本での17年間、ピアニストの育成と演奏活動で、日本の楽壇に貢献する。この時、長女の万里子さんが、シロタ氏に師事しています。東京芸術大学の教授をしていたシロタ氏は、戦後、惜しまれながら教授職を辞し、アメリカのセントルイス音楽院で教鞭を取りました。戦後、シロタ氏から万里子さん宛にセントルイス音楽院に勉強に来るように手紙が来ました。残念ながら、これは実現しませんでしたが、万里子さんとシロタ氏の師弟関係の様子がうかがいしれると思います。芹沢先生の代表作『人間の運命』で戦争中長女が軽井沢の外国人のピアノ教師のところにレッスンに通うのは、レオ・シロタ氏を指しています。

  娘のベアテ・シロタ・ゴードンは、日本国憲法の草案に「男女平等」の文言を加え、2005年に「ベアテの贈りもの」として、映画になりました。

  今年、万里子さんのピアノの先生だったレオ・シロタ氏についての映画が岩波ホールであります。「シロタ家の20世紀」です。9月27日(土)〜10月17日(日)の3週間です。

  芹沢光治良に関わってきた人、具体的にみていく一つの機会になると思います。

 岩波のホームページを観ると、 

 この映画は文化事業の為に遺された藤田晴子の志を受け継いで作られた。  とあります。

 藤田晴子(大正7年〜平成13年)という人は、東京大学法学部に最初に入学した女性で、東京生まれ。ピアノをレオ・シロタに師事。昭和13年日本音楽コンクール・ピアノ部門第1位。国立国会図書館の専門調査員(事務次官級)等を務めた才能にあふれた人です。勲三等瑞宝章受章。 藤田氏の遺産でこの作品が作られました。

投稿者: 管理人 日時: 2008年08月31日 22:08
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2008年02月09日

モーツァルトについて  野沢さんからのコメント

芹沢光治良が書いた『モーツアルトの結婚』の紹介文について、野沢様からコメントをいただけました。

ちょっと待ってェという感じで反応させていただきます。私が介入する事は、この場合、祖父、 芹沢光治良に反発する結果になるかもしれませんが、モーツァルト夫人であったコンスタンスは、 本来は姉貴に恋慕していたモーツァルトと結婚した後、何人もの子供を失った上に、天才と崇めていたいたダンナも亡くしてしまった後に、 結婚に対して大反対であったナンネルと教育パパでもあったレオポルドといった過程があったザルツブルグに移住して、 モーツァルトの銅像建造に奔走したり、今でも有名なMozart Kugeln標章のチョコレート等の、ザルツの土産物品を開発したり、 モーツァルト顕彰に関しては、最期まで頑張った凄い女性と、私は学びました。その意味ではコンスタンスこそ、「愛するものでなければ、 本当に作者の心をくみとってくれないというのが、あらゆる芸術を鑑賞する場合の心理である」を体現していたのではないでしょうか。 モーツァルトがザルツブルグに戻らなかったのは、結婚に反対した父親への返答ではなかったか?

当時の、ウィーンでの埋葬は、女性が墓地まで行けなかった慣習にも関係して、 ですから無名墓地に大多数一緒に放り出されてしまったモーツァルトの頭蓋骨を捜しだす為には、毒殺した本人とも、 ある史実には残っているサリエリの助力も得たそうですね、これは私、愛した者に対する怨念として受け止めました。 少なくとも宮廷シリーズ6曲、ウィーンシリーズ6曲、 三大ソナタと言われるピアノとヴァイオリンのソナタ15曲を必死に勉強した私が得た、作曲家の背景であります。そして今は、 何故モーツァルトがフリーメーソンと交わって、晩年に「魔笛」を作曲するに至ったか理解しようとしています。ええと、 魔笛公演に際しては、コンスタンスのみならず、かつて思慕していた義姉も「夜の女王」として歌っていたのではなかったかしら?

 野沢様からのコメントを読んで、「モーツァルトがザルツブルグに戻らなかったのは」は「モーツァルトがザルツブルグに戻りたくなかったのは」と変更させて下さい。私の書き間違いでした。事実、モーツアルト夫妻は、結婚した翌年の7月にザルツブルクを訪問し、3ヶ月滞在しています。10月26日に『ハ短調ミサ』の初演で、「いとしの妻」はコンスタンツェによって歌われています。

 この結婚について、父レオポルドは、「ふつりあいな結婚」に踏み切ったことに衝撃を受け、息子を捕まえようと徒労に終わった必死の試みを結婚前から開始します。歓迎されない結婚として例えば、前記のザルツブルク訪問の時コンスタンツェは実際舅から何一つ贈り物をもらっていません。指輪さえも。モーツァルトもこの父の態度については傷ついていたらしい。

 モーツァルトの姉、ナンネルとモーツァルト夫妻との関係はどうでしょうか。ナンネルは父の死を、モーツァルトに教えていないだけではなく、危篤であることすら伝えていません。彼らの交信は1780年代の半ばころから極めて少なくなっています。彼らは、互いの結婚式に列席していないし、、互いに相手の子供達の顔も見たこともありませんでした。モーツァルトの死に関してもコンスタンツェの間とは何も交信がなかったらしい。

 この事実から、モーツアルトの死後、出版されたモーツアルトの伝記は、「父に逆らって自分(モーツァルトのこと)にふさわしくない娘と結婚した。それゆえ、ヴォルフガングの死に際、そして死後も家庭に生半可ではないごたごたが生じたのだった」というナンネルの回想録をそのままシュリヒテルの伝記に引き写した。一方、コンシタンツェはニーメチェックに、自分に不利な所を除いて書簡の情報を提供し、夫の伝記を書かせている。この伝記の争いもコンスタンツェの二度目の夫ニッセンの手による「モーツアルト伝」をニッセンの死後2年目に刊行され、分裂した初期伝記群に終止符が打たれたとされています。

 モーツァルトの死後に姉のナンネル、妻のコンスタンツェの立場の違いが表に表れたようです。

 この流れの中で、「コンスタンツェの悪妻説」に説得力をもたしたのが、モーツァルトの埋葬についてです。野沢氏に書かれているように当時のウィーンの埋葬は、女性が墓地まで行けなかった慣習」があります。

 モーツァルトが亡くなったのは、1791年12月5日です。この当時の規定によると冬は、遺骸を午後6時以前に墓地に運んではならないことになっていました。だから6時頃に、霊柩馬車について、聖シュテファン教会から聖マルクス墓地まで徒歩で行き、行けば帰らなければなりません。6時過ぎると暗くなり、街灯もなく、霊柩馬車を運転している者が酒好きだったら、途中に居酒屋があれば居酒屋によって墓地まで運んだという証言もあります。したがって女性だけでなく縁者はついて行きたくても行くことが出来なかったのです。モーツァルトの亡くなった夜は真闇で荒れ模様でした。死者への最後の祝別の儀式の時は、嵐が始まり風雨が強くなりました。雨混じりの雪の中、遺骸の野辺送りをしたのは少数の友人と3人の女性。ここにコンスタンツェがいなかった。

 聖マルクス墓地に着いた遺骸は、一番手近の墓穴へ入れる。放り込んだらすぐ、シャベルで土をかける。衛生的になる目的で行われたそうです。

 モーツァルトの遺骸の在処を知っているのは、墓堀人足だけです。

 ヘルミーネ・クレーターの『W・Aモーツァルトの墓』によれば、コンスタンツェに、夫の墓に十字架を立てるべきだと最初に言ったのは墓堀人足です。ここでようやくモーツァルトが埋葬される場所を知っている人間が現れるはずでしたが、後にある人が当の墓堀人足に尋ねようと墓地に出かけたところ、その人足はいませんでした。そして発見できなかった。コンスタンツェは墓に十字架を立てるのは司祭の仕事だといって何もしなかった。ヨーゼフ・ダイナーに、コンスタンツェにこの簡単な仕事を実行するよう説得しましたが、「彼女から剣もほろろにあしらわれた」という。コンスタンツェは「司祭が十字架を手配するもの」と繰り返し、実際に建てられたかどうか、確認もしていません。コンスタンツェは自分をもっとも優しく愛してくれた人、その栄光ある名前で恩恵を与えてくれた人の埋葬場所を訪れたのはー既に所在不明の場所として評判になっていたがー17年の歳月がかかりました。

 こうした行為が悪妻説につながっていると思います。アルトゥール・シューリヒトは、「こうした行為はコンスタンツェの冷淡さを示すだけではない。彼女が感謝と愛の気持ちを持って動かなかったことは、悪意でないとしたら激しい敵意の表示遺骸の何ものではない。」と言い切っています。

 コンスタンツェについては、1988年、ハワード・チャンドラー・ランドンは、セクシーな仔猫で、残薄で、モーツァルトを理解する能力のない愚かな女で、家計の管理能力が欠落し、モーツァルトを性的に惑乱させた淫乱の悪女だったというこれまでの長きにわたって定着していた誹謗中傷の根拠は、レオポルドとナンネルの感情にあるとして、他には何処にも見いだせないと論証しました。

 野沢氏の指摘はそのレッスンでの過程で得た貴重なコンスタンツェの事実だと思います。しかしハワードの説は、モーツアルトの埋葬については、どう結論しているのか興味があります。

 

投稿者: 管理人 日時: 2008年02月09日 07:08
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2008年01月23日

音楽と女性 1

 1960年(昭和35年)に『女生のための音楽教養講座』 第二巻 が出版されました。その中で 2 音楽と女性

というところで芹沢光治良氏も執筆しています。目次を見ますと、音楽と女性 野村光一氏が書かれています。

次に音楽家と恋愛という章が始まります。その最初のページに芹沢氏は、「モーツアルトの結婚」を書いています。

他にどなたが書いているかここに記します。

 「不滅の恋人」について ーベートーベンー  佐多稲子

佐多稲子氏は、戦後の女性をめぐる様々な問題を発表いています。佐多が描くベートーベンの「不滅の恋人」にも興味が湧きますね。

 「不滅の恋人」問題とはベートーベンが亡くなった翌日、一通の恋文が発見された事から始まります。ベートーベンが遺言書に書いていた有価証券を探している時、有価証券が見つかった人目のつきにくい秘密の場所に、女性のミニチュアの肖像画と共に、その恋文が発見された事から始まります。当然、この恋文の相手は誰かということで、「不滅の恋人」の問題が始まったのです。その恋人は、20世紀前半まではエルデーデ伯爵夫人と言われていた。

 しかし、この「不滅の恋人」問題の過程で、ベートーベン像が変化してきました。ベートーベン像は超人的で悲壮感をただよわせた英雄のイメージですよね。小学校の音楽室に飾ってある肖像画のようなものです。ところが、ロマンロランの「恋人」研究で、フランス革命後の自負に満ちた芸術家に変わってきている。暗い悩んでいるベートーベンの姿は見られなくなったようです。

 一度音楽室の肖像画がまかれてしまうと、なかなかそのイメージを払拭するのは難しいのですね。超人的で悲壮感をただよわせた英雄のイメージは私達日本人好みなのでしょう。

結局、1970年代にアントーニア・ブレンダーノという説が出てきた。アントーニア・ブレンダーノは、オーストリア宮廷の重臣だったビルケンシュットク伯爵家出身で、富豪フランツ・ブレンターノにのぞまれて18歳で結婚。ところが嫁ぎ先にはなじめず、重度の心身症を患うかでになるのは、まさしく女性問題で、佐多稲子氏は、どう書くか、又芹沢光治良氏はどう描くか興味を持ったがこの本が書かれたのは、1961年なので、アントーニア・ブレンダーノ説はまだ知らないことになります。

 

 愛は無限の喜びを歌う ーウエーバー    畑中良輔

畑中良輔 バリトン歌手、音楽評論家、東京芸大で教える。

 わが恋もまた終わらず ーシューベルトー  小堀杏奴

  小堀杏奴(こぼりあんぬ)は、森鴎外の二人目の妻の次女で、エッセイストだから、あのエステル伯爵の娘のカロラインの悲恋だろうか?しかし、これは事実ではないといわれているけど、どういうことを書いているのか?

 エステルとアンリエット ーベルリオーズー  尾崎喜八

 尾崎は、ロマン・ロランを原書で読みたいためにフランス語を習い、自分の詩集をロランに送り、以後ロマンと文通する仲になった。また、ベルリオーズの著作である「ベートーベン交響曲の批判的研究」の翻訳を手がけているのでこの人選になったのだろう。

 女の愛と生涯      ーシューマンー    新田 潤

新田潤は戦前、戦争中でも反権力を貫いた人であり、文壇野球チームのメンバー。そのメンバーは、調べると田村泰次郎、井上友一郎、獅子文六、今日出海、船橋聖一、石川達三、河上徹太郎

 シューマンは、母の希望に従って法律を大学で勉強するが、本当は、文学と音楽に情熱を傾ける。その時、憧れのピアニストフリードッヒ・ビークに出逢い、娘のクララ演奏を初めて聞く。ここから新田氏はどう書いているか?なぜ新田氏が書くか、読めば何かつかめるのではないか?気になりますね。



 悲恋のピアノ詩人   ーショパンー      小山いと子

 小山いと子氏は、直木賞作家で、この頃は作品が良く映画化されている。

 狂詩曲の人       ーリストー       芝木好子

 芝木好子は浅草出身の作家。作品が映画化されている。芥川賞作家で女の夢と愛を端正な文章で織り上げた作品を書く。それで、リストをどう書いたのだろうか。

 ワーグナーと女性                 河上徹太郎

 河上は、東京府立一中で小林秀雄の一年先輩。一高の時に休学し、ピアノを習う。東京帝大生の時に「音楽に於ける作品美と演奏美」を発表する。文芸評論家で音楽評論家。

 恋愛から芸術へ    ーブラームスー    吉田秀和

 などが見られます。

 これらすばらしい執筆陣の名kで音楽家と恋愛という項目の一番目にモーツアルトの結婚ということで

芹沢光治良氏が執筆していることは、その音楽的教養、音楽と女性というこの本の目的から、女性の生き方を書いてきた芹沢氏はまさにふさわしいものと思います。

   

 芹沢先生が、「モーツアルトの結婚」では、どのように書いているか、興味有りますね。書き出しは

モーツアルトの音楽とその生涯を思う時、私は一つの挿話を思い出す。

 この原稿を書いている30年前、パリで勉強していた頃、先生が作家になる前の頃です。

 続く

投稿者: 管理人 日時: 2008年01月23日 21:17
posted by セリブン at 21:17| Comment(0) | 芹沢光治良と音楽