2009年05月23日
和田好恵さんは、1930年(昭和5年)芹沢先生が中央大学で教鞭を取っていたときの生徒さんです。好恵という名前で女性だと思いますが、男性です。
樋口一葉の研究の第一人者で、晩年『接木の台』『暗い流れ』など、人間の業を見つめ、味わい深い世界を描いた作家ですが、作家・和田好恵の出発は、編集者でありました。中央大学法学部を卒業した昭和6年、新潮社に入社。入社してすぐ、「日本文学大辞典」の編集に回される。(東大国文科の東大国文科の藤村作(つくる)博士が、昭和3年から東大の国文と国語研究室に働きかけていたもの)和田氏いわく「ひろく、浅いものではあったが、辞典の編集に携わりながら、私は日本文学全般にわたって知ることができた」
この後、大衆雑誌「日の出」の編集に携わり、菊池寛、吉川英治、尾崎士郎、小島政次郎ら多くの作家とつきあった。新潮を退社後、作家として、また一葉研究といして、活動する。
昭和44年 撮影
私は(中央大学の)学部にはいったころ、上級の学生が単独で創刊した「中大新報」の文芸欄を手伝ったり、また「新古典派」 という同人雑誌の仲間に加わったりした。経済学の講座を持っていたのが、『ブルジョア』を書いた芹沢光治良教授だったから、 私たちは中野の小滝橋に近い芹沢邸に出入りしていた。どうせ、卒業しても、就職ロがなさそうなので、 私は退学しようと考えて芹沢教授に相談した。
「君を将来引きたてようとする人がでたとき、中途退学のために手を貸すことができないかもしれない。もう、少しのしんぼうだ。 卒業したまえ」
と、芹沢教授からものやわらかな調子で忠告してくれた。その教授は夕刊に『明日を逐うて』の連載がはじまって辞めた。 小説を書く教授は困ると学校当局が辞職させたのであった。私たち同人雑誌の仲間は、学校を去った教授の小説がのった新聞の切り抜きを、 みなで回し読みをした。
(和田好恵著 ひとつの文壇史 講談社文芸文庫 より)
和田氏は、戦後千葉県市川市に在住された。JR市川駅から一つ千葉よりの本八幡駅が出来た時だから、昭和10年の時です。 住まいは、八幡神社の近く。和田氏の奥さんは結核にかかり、市川の上空では海からの風がまじりあい、オゾンが発生し、 療養地向きだといわれ越してきた。どの家にも病人がいて、一面の梨畑、牧場の中で生活した。そのような時代です。
市川に関わる作家として和田氏は、市川中央図書館に全集が置いてあります。エッセイなども読むことが出来ます。そのエッセイの中で、 『永井荷風』というものがあります。
昭和21年1月、市川の菅野に幸田露伴と永井荷風が越してきた。 和田氏の自宅から歩いて30分のところに永井荷風氏が住んでいて、永井荷風とその周りにいる人達との親交とはいえない交流を書いたのが 『永井荷風』というエッセイです。
これを読むと、作家と作家に群がる周りの人達の常識にとらわれない、人間の持ついやらしさがよくわかります。正直いうと、 市川でこんな事をやていたのかというものです。作家の社会における位置が、著しく悪いというのがよくわかります。(永井荷風が、 悪いというわけでなく、その周りにいるものの悪い事は、びっくりです。世の中に、すねた生き方をしている事がわかります) 今の時代作家が、知事や副知事、国会議員をやり、全体の幸福のための仕事をしているとは、予想を付かなかった事でしょう。
しかし、芹沢光治良先生の良識を持った生き方は、半世紀以上早く芹沢先生が実践されたと思います。時代の先をいっていたので、 当時の文壇という人達から理解されるわけないですね。
投稿者: 管理人 日時: 2009年05月23日 10:02