seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢光治良の周りの人物: 芹沢光治良文学愛好会

2009年08月24日

新庄 嘉章(しんじょう よしあきら)

新庄 嘉章(しんじょう よしあきら)
芹沢光治良先生の周りにいる人物をカテゴリーでまとめました。
順序は重要度順では、ありません。
 
新庄 嘉章(しんじょう よしあきら、1904年11月10日 - 1997年8月26日)は、日本のフランス文学者である。日本芸術院会員。


バルザツク全集 第5巻 セザァル・ビロトオ 『巴里生活場景』 芹沢光治良と共訳したひとです。1935年に河出書房から出版されました。

 広島出身。早稲田大学仏文科卒、早稲田大学教授を務めるかたわら、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳をおこなった。
定年退職後、名誉教授。
 1964年2月24日、60才の時、東京中野の料亭「ほととぎす」で開催された「竹の会」の席上、酒に酔った勢いで木山捷平の右手薬指に暴行。全治数ヶ月の傷を与える。さらに「また売文のネタが一つ増えたじゃないか。それを随筆に書いて、その原稿料で温泉にでも行って来い」と暴言を吐いたため、木山から「握手の被害」(1964年、『日本経済新聞』)ならびに実名小説「薬指」(『風景』1964年9月号)の中で糾弾された。
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 フランス文学を専攻していて、やることは、日本の文壇の息吹を感じさせる人ですね。
1984年、『天国と地獄の結婚』で平林たい子文学賞受賞、1990年、日本芸術院賞受賞、同年芸術院会員。




熱海双柿舎にて 昭和四十年
(左より)伊馬春部、島村利正、井伏鱒二、小沼丹、吉岡達夫、横田瑞穂、新庄嘉章、村上菊一郎、浅見淵

投稿者: 管理人 日時: 2009年08月24日 22:59
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2009年05月23日

芹沢光治良と関わった人達2 和田好恵

2009年05月23日
和田好恵さんは、1930年(昭和5年)芹沢先生が中央大学で教鞭を取っていたときの生徒さんです。好恵という名前で女性だと思いますが、男性です。

  樋口一葉の研究の第一人者で、晩年『接木の台』『暗い流れ』など、人間の業を見つめ、味わい深い世界を描いた作家ですが、作家・和田好恵の出発は、編集者でありました。中央大学法学部を卒業した昭和6年、新潮社に入社。入社してすぐ、「日本文学大辞典」の編集に回される。(東大国文科の東大国文科の藤村作(つくる)博士が、昭和3年から東大の国文と国語研究室に働きかけていたもの)和田氏いわく「ひろく、浅いものではあったが、辞典の編集に携わりながら、私は日本文学全般にわたって知ることができた」

 この後、大衆雑誌「日の出」の編集に携わり、菊池寛、吉川英治、尾崎士郎、小島政次郎ら多くの作家とつきあった。新潮を退社後、作家として、また一葉研究といして、活動する。

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昭和44年 撮影



 私は(中央大学の)学部にはいったころ、上級の学生が単独で創刊した「中大新報」の文芸欄を手伝ったり、また「新古典派」 という同人雑誌の仲間に加わったりした。経済学の講座を持っていたのが、『ブルジョア』を書いた芹沢光治良教授だったから、 私たちは中野の小滝橋に近い芹沢邸に出入りしていた。どうせ、卒業しても、就職ロがなさそうなので、 私は退学しようと考えて芹沢教授に相談した。
「君を将来引きたてようとする人がでたとき、中途退学のために手を貸すことができないかもしれない。もう、少しのしんぼうだ。 卒業したまえ」
と、芹沢教授からものやわらかな調子で忠告してくれた。その教授は夕刊に『明日を逐うて』の連載がはじまって辞めた。 小説を書く教授は困ると学校当局が辞職させたのであった。私たち同人雑誌の仲間は、学校を去った教授の小説がのった新聞の切り抜きを、 みなで回し読みをした。

(和田好恵著 ひとつの文壇史  講談社文芸文庫 より)

 和田氏は、戦後千葉県市川市に在住された。JR市川駅から一つ千葉よりの本八幡駅が出来た時だから、昭和10年の時です。 住まいは、八幡神社の近く。和田氏の奥さんは結核にかかり、市川の上空では海からの風がまじりあい、オゾンが発生し、 療養地向きだといわれ越してきた。どの家にも病人がいて、一面の梨畑、牧場の中で生活した。そのような時代です。
市川に関わる作家として和田氏は、市川中央図書館に全集が置いてあります。エッセイなども読むことが出来ます。そのエッセイの中で、 『永井荷風』というものがあります。

 昭和21年1月、市川の菅野に幸田露伴と永井荷風が越してきた。 和田氏の自宅から歩いて30分のところに永井荷風氏が住んでいて、永井荷風とその周りにいる人達との親交とはいえない交流を書いたのが 『永井荷風』というエッセイです。

これを読むと、作家と作家に群がる周りの人達の常識にとらわれない、人間の持ついやらしさがよくわかります。正直いうと、 市川でこんな事をやていたのかというものです。作家の社会における位置が、著しく悪いというのがよくわかります。(永井荷風が、 悪いというわけでなく、その周りにいるものの悪い事は、びっくりです。世の中に、すねた生き方をしている事がわかります) 今の時代作家が、知事や副知事、国会議員をやり、全体の幸福のための仕事をしているとは、予想を付かなかった事でしょう。

 しかし、芹沢光治良先生の良識を持った生き方は、半世紀以上早く芹沢先生が実践されたと思います。時代の先をいっていたので、 当時の文壇という人達から理解されるわけないですね。

 

 

投稿者: 管理人 日時: 2009年05月23日 10:02
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2009年05月20日

芹沢光治良と関わった人達 橋爪健

2009年05月20日
芹沢光治良と関わった人達 橋爪健
 芹沢先生は、沼津中学校時代に同人誌を作っていた。同人の一人に橋爪健(1900. 2.20(明治33)
〜1964. 8.20(昭和39))がいた。沼中、東高を通じて歌い継がれる校歌の作詞者としても知られる。 卒業後に進んだ一高、東大法科でも詩作にふける。大正十一年に初の詩集「合掌の春」を出し、詩人として知られるようになった。昭和二年、自ら創刊した「文芸公論」で新感覚派の詩人らの作品を取り上げたほか、橋爪自身も小説、評論を書いた。菊池寛を批判したことがきっかけで、文壇から遠ざけられた逸話が残る。

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 「文藝公論」について説明すると、昭和二年一月から三年五月にかけて発行た。当時新進の詩人・評論家として活躍していた橋爪健がほとんど独力で編集・発行した総合文芸誌で、既成文壇打倒の旗印のもと、新感覚派からプロレタリア文学にいたるまでの各派の新人を糾合して、創作・評論はもとより、合評会、アンケート、漫画、海外・地方文壇の紹介など様々な新機軸を駆使し、精彩に富む誌面をつくって注目をあつめた。例えば、創刊号一冊を取り上げても、松永延造、葉山嘉樹、稲垣足穂、橋爪健、十一谷義三郎の創作、千葉亀雄、久野豊彦、林房雄らの評論、尾崎士郎、今東光、片岡鉄兵、稲垣足穂らによる合評会、編集者・文芸家の興味深いアンケートなど、時代の転換期を迎えて新しい文学をひたすら求めて模索する若々しい熱気が生き生きと伝わってくる。このように昭和初年代の文学状況をたどる上で逸することのできない雑誌である。



 芹沢光治良先生よりは、早く文壇に登場した橋爪氏。例えば、南天堂という本郷白山上にあった1階は書店、二階はカフェーレストラン(大正6年開業)。集いし客は、大杉栄、近藤憲二、和田久太郎。労働運動社、北風会の闘士。岡本潤、萩原恭次郎、壷井繁治、小野十三郎ら詩誌『赤と黒』同人。辻潤、宮嶋資夫、中西悟堂、今東光、村山知義、橋爪健、高見順、秋山清、きだみのる、菊田一夫。池山薫子、友谷静枝、林芙美子、平林たい子……。そこは、夜毎アナキスト・ダダ詩人らが喧騒する酒場であり、時に前衛美術家の展覧会場となり、また<近代名著文庫>や文芸誌『ダムダム』を発行する出版部があり  「南天堂時代」と呼ばれる、伝説の階上喫茶店で、それこそ文壇らしい(?)生活をしていたようだ。

 ところで、校歌の話しに戻りますが、橋爪が校歌を作詞したのは一高在学中の大正九年。橋爪は「香陵」六十周年記念号に寄せた一文「校歌の思い出」で、教員前田千寸から作詞の依頼を受けたことを明かす。同年に「春甦るときのために」と題した一高の寮歌を作った橋爪は、「寮歌を作るコツで一生懸命書き上げた」一方で、「できるだけ柔らかな抒情味を加えるようにしたつもり」と中学にふさわしい歌づくりに心砕いたことを述懐する。

代表作

『詩集第一集』1921//
『合掌の春(小曲集)』1922/教文書院/200p/13cm
『午前の愛撫』1922/九十九書房/237p/19cm函

 

投稿者: 管理人 日時: 2009年05月20日 06:20
posted by セリブン at 06:20| Comment(0) | 芹沢光治良の周りの人物