管理人です。3月18日(日)は、合宿で愛好会読書会には参加できませんでした。今回の月例会のテキストは、「母の心配」です。短編小説 「母の心配」(婦人画報 昭和26年1月号)です。内容を見ると音楽が主要な登場人物の心理に音楽が大きな影響を与えているのです。
参加できないので原稿を読んでもらおうと思っていて書きました。しかし、練習と重なり、読書会に届ける事が来ませんでした。その原稿をここで載せて愛好会の方に読んでもらおうと思いました。
「母の心配」
この小説は、音楽、特にピアノについて触れられている。P159の「あれはリストの整フランシスという曲でございませんか。右手のピアニシモ、アレは小鳥のさえずりでしょうか。私の胸はあのピアニシモであやしくふるえました。ピアニシモにあわせて、すぐ左手のメゾフォルテのテーマの繰り返しは、鳥に説教する聖フランシスの言葉でしょうか。胸に暖かく染みわたるようなテーマですわね。」この部分は「母の心配」の登場人物、音楽大学生の由利子が中山への手紙に何気なく書かれているところです。
ここで意外に思ったのは、ピアノ曲としてポッピュラーでない作品としてリストの作品を取り上げている事です。リストの聖フランシスに関わる作品曲は、「二つの伝説」から @「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」A 「波を渡るパオラの聖フランシス」という作品があります。
作曲家のリストは華やかなスタートしての人生を送っていましたが、老境にはいると次第に宗教の世界に惹かれるようになり、 1865年には僧籍に入ることになります。その次の年、1866年に作られた作品です。
また、あまりリストの作品では有名でないこの作品を取り上げるという事は、芹沢光治良の音楽の素養の深さを知ることが出来ます。さらに芹沢先生はここでピアノ曲の解釈をしています。
リストの作品は、「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」を指しているのだろうと思われます。実際楽譜を見てみると、どれが小鳥のフレーズでどれが聖フランシスのメロディと作曲者が楽譜に書きいれているわけではありません。演奏家が、リストについて調べ、楽譜に書かれている事を忠実に再現しようとする過程(絶え間ないピアノの練習です)である種のひらめきが生まれてくるのです。そのひらめきが芹沢先生のような解釈につながります。
実際、リストのピアノ作品は、技術的にかなり難しいのでリストの作品を弾いてしまうほどの技量を持っていない芹沢先生がどのようにして、その解釈を持つように至ったか、興味を持つわけです。普通は練習を通して得られる、又はピアノのレッスンを通して得られる解釈をどのように持ったかという事です。少なくとも解釈するという事は、楽譜に書かれている事を忠実に再現しようとする過程を耳にしてないといけません。それが芹沢先生にはどのように経験されたのか。
この作品が発表された昭和26年の芹沢光治良先生は、三宿でお住まいでした。その頃は、現代の生活のようにCDを用いて気軽に聴く事など出来ませんでした。SPレコードをCD一枚分がSPレコードでは7,8枚分の枚数が必要であり、聴くにしても場所を取ります。レコードの保管だけでも結構な枚数がかかります。音楽の好きな芹沢先生がリストの作品だけを聴いていたとは思えません。三宿時代の書斎の写真を見ましたが、芹沢先生の周りには、レコードやプレイヤーの再生装置は見えませんでした。2階で書かれていた芹沢先生です。一階ではどうだったか、一階にはピアノを置いてありました。もしかしたら、プレーヤーが置いてあったかもしれません。原稿執筆時にはよく音楽を聴きながら、書かれていた芹沢先生が忙しい仕事を中断して音楽だけを聴きに来る事は希だったと思います。
そうすると、絶え間なく聞こえてくるピアノ練習の過程は2階で執筆中に一階から聞こえてくるピアノの音ではないでしょうか。
誰が、それを弾いていたか。それは、芹沢光治良の長女である万里子さんだと予想されます。戦争中でも、軽井沢でレオ・シロタに師事していた万里子さんは、この時期にアメリカの音楽院で教鞭をとっていたシロタ氏からあ渡米しないかと誘われています。難しいピアノ曲を練習していたのではないかと思われます。
ところで「母の心配」では、最後に由利子が中山が弾くシューマン作曲「クライスレリアーナ」を聴いて「もうおしまい、もうおしまい」と泣いて、川森という見合いの相手に結婚の申し込むをする。
ここで芹沢光治良が「クライスレリアーナ」を選んだのは、センス抜群、協力な証拠を突き立てられた被疑者というか、BGMとして、その情景にあった音楽ではすむのではなく、「クライスレリアーナ」が、聴いている者に結婚を諦めさせる強烈な説得力を持たしてしまいます。
「クライスレリアーナ」は情熱的な曲です。この情熱は何か狂気じみたものを想像させます。演奏者はただ音楽を演奏するというより、狂気じみた情熱の世界に入り込んでしまったような演奏をします。聴いている者は、聴いている者自身に迎合しないで自分が作った情熱の世界に入れ込んでしまうことに気がつきます。聴く者はひたすらな演奏家の自己主張に「憧れ」を抱いてしまう者なのです。
これが演奏者に恋をしているものが聴くと、この「憧れ」は無惨にも「諦め」になるのでしょう。
なぜなら演奏家は、私の方には見向きもしないということに気がつくのですから。私の気持ちに囚われるのでなく、シューマンのメロディに囚われてしまっているのです。
この情熱的な、メロディ、リズム、和声を聴いて下さい。中山は由利子ではなくピアノ音楽に心が盗られているのが、良くわかるのが「クライスレリアーナ」なのです。
最後に「クライスレリアーナ」をなぜ知ったのか。万里子さんのピアノか、ヨーロッパでの留学でか、それとの帝劇でのピアニストの演奏家からか。
しかし、クラシック音楽は、一回聴いただけでその良さはわかりません。何回も聴いて新しい発見につながります。
何回も聴くという事は、やはり万里子さんのピアノではないでしょうか。
2007年03月19日
「母の心配」」(婦人画報 昭和26年1月号)
posted by セリブン at 20:59| Comment(0)
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