seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢文学愛読者の会 名古屋: 芹沢光治良文学愛好会

2023年05月07日

芹沢文学愛読者短信 2023年4月1日 第229号

『紙上3分間スピーチ』

3号を読んでの感想

今年もコロナ禍で、芹沢文学

愛読者新年会は中止となりまし

た。そこで、『紙上3分間スピー

チ』を芹沢文学愛読者の皆様の

ご協力を得て、第3(令和5

1月発行)を作成し発送しま

した。


すると、多くの皆様から喜びのお便りが

届きました。感謝の気持ちを込めて、ここ

に紹介させていただきます。紙面の都合で

全員の皆様のお便りを紹介できませんで

したこと、お許し願います。


◎今年も多くの方が参加され、皆様方の愛情とこの文集を待ち望んで見えること、深く感じました。お顔を思い出しながら、懐かしく読ませていただきました。


◎表紙から、末ページの文子先生の

ピアノまで素晴らしい一冊ですね。

芹沢文学という大きな灯台のもと「今

年もまた頑張ろう」という大きな力が

湧き上がるのを覚えています。


◎「嬉しいこと、悲しいこと」を含め、

寄稿者の日常の機微がリアルに描か

れており、大部な内容です。


◎昨日待望の「紙上新年会」の冊子が届

きました。

格調高い中島さんの表紙画が一番に

目に入りわくわく感をたかめてくれます。


◎恵ちゃんが音大を卒業して、ウイーン

に留学とは、あの小学生だった恵ちゃ

ん、立派なお嬢さんなのですね。


◎皆様の近況など熱い波動が伝わり、

一気に読ませていただきました。


◎封筒から取り出した時、表紙が素晴ら

しく、感動いたしました。

全体として抑えたトーンでありなが

ら、そこに描かれた若者の

浮き立つような心の動きまで伝わっ

てくるようです。今を精一杯

生き、かつその先に明るい未来を感じ

させる爽やかな絵画です。


◎表紙に釘付けになりました。写真かし

?それとも絵?何度見ても

わかりません。人は歩いているし、水

面は揺れている、話し声が聞こえてく

るようです。この様な「動画絵』(

の造語)は初めてです。

感動の一枚です。


自伝抄 第2


捨て犬か、雑草のように

       芹沢光治良


落ちぶれ、家も小さく

人間は何歳から自分のことを記憶

するものだろうか。私にとって、最

初の記憶は三年と何か月かの或る朝

のできことだが―離れの祖父母の蚊

帳から出るなり、いつもどおり母家

へかけて行ったが、母も父も見当た

らないので、長い廊下をかけ出して、

客部屋と呼んでいた建物の方へ行っ

た。そちらにはいつも肩馬にのせて

くれる青年(にいさん)がいるはずなのに、誰もいない。べそをかきながら廊下をも

どると、子守りの少女がとんで来て

――みんな行ってしまったですと、

涙を出して、むりやり寝衣(ねまき)を着がえ

さした…..


それが、私を一人のこして、両親

が三つ年上の兄と一つ半年下の弟を

つれて故郷を去った朝であるが、他

のことは覚えていない。悲しくも淋

しくもなかった。祖父母や二人の叔

母がいたからだろうか。その後、客

部屋の兄さんを折々探して、彼もい

なくなったとあきらめた時、悲しく

て、小さい叔母にむずかったことは

覚えているが・・・・・


その朝の後のことを記憶にさがし

ても、さだかでない。毎日家へ人が

たくさん群がって、にぎやかだった。

部屋がこわされて、びっくりして

いるうちに、離れも母家も崩されて、

材木の小山ができたが、見たことの

ない馬力車が何台もならんで、小山

をはこんだ。馬が珍しくて近寄って見ていて、祖父に怒鳴られ叱られた。あれが祖父

から怒鳴られた最初だった・・・が、二度目怒鳴られたのは、裏の池がうずめられるのを見ていた時でー

普請場に来るなと言ったろう。いっ

しょにお前もうずめてしまうぞと、

こわい顔をした。


たまげてーおうちが歩いていると

叫んで、若い衆に笑われたが、頭が

真面目な顔で――坊ちゃん、おうち

はなまけ者でね、みんなが押した

り引っ張ったりしないと、歩かない

から困ったもんだよと言った。それ

でその頭が好きになった。

あの頃はまだ坊ちゃんだったし、お

にぎりは白米だった。もう手伝いの

婦達はいなくて、祖母と上の叔母が

おにぎりをつくった・・・・・


家ができたから帰るというので、

とんでもどったところ、新しい家と

いうのは、池の裏からやっとこさ表

通りに来た、あのなまけ者の小さい

草屋根の古家だった。子供心にがっ

かりした。

 でも、縁側の前に、以前池の築山

の方にあった垂柳と、黄楊となつめ

の木と橙と椎の古木が一列にならん

で、歓迎しているみたいだった。

 縁側に立ってーわあ、木も引っ越

しできたんだねと言うと、道路の境

に竹垣ををつくっていた老人が一坊

ちゃん、木も庭がなくて、こんなに

ならんでは窮屈だけれど、がまんし

ますよ。

つづく

posted by セリブン at 10:06| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2022年12月01日

芹沢文学愛読者短信 2022年11月3日

『令和5年紙上3分間スピーチ』

来年(令和5)も新年会が中止

要領

となったことで、『令和5年版、紙上

3分間スピーチ』 を作成します。

『記入要領』は次の通りです。 よろ

しくお願いいたします。

記入要領

記入用紙は同封のハガキを使

用。 二枚同封で一枚は予備用

(個人でお持ちの白紙のハガ

キにパソコンで印字も可)

2 :ハガキに記入する筆記具。

@ 鉛筆は不可(印刷機が読み取

れないため)

A 黒のボールペン、黒のサイン

ペン、黒インク使用

文章はハガキ一枚片面で。

締切・令和41220()

発行日・令和 5

25

送付予定

ハガキの送付先、連絡先

安井正二宛


『自伝抄』


芹沢先生が 80 歳の時、 読売新聞に連載さ

れた 『自伝抄』をご紹介します。

新聞記事をコピーしましたが、 45年も前の

新聞とあって、活字は小さく、新聞紙は色あ

せて読みにくい仕上がりになってしまいま

した。

そこで、パソコンで書き写しました。 内容

は先生が過ぎし日を思い出され、 32歳まで

の日々を、語りかけるように書かれたもので

す。 楽しみにご期待ください。


昭和52(1977) 15


1


三つの時、両親が蒸発


今年の元旦には、孫娘の一人が五年ぶりにパリから帰ったとて、訪ねて来た。 去年パリの音楽院を卒業するなり、パリのプリ・オケ(オーケストラ・コンセルバトアル)の団員に

なったので、ようやく年末休暇で日本に帰れたというのに、三日にはもうあわただしくパリへ発ったのだが


「おじいさまは還暦二年の八月ですって八十歳ではなかったの」と、訝しげに私の赤いチョッキに目をおいて、「お弱かったから、もうお目にかかれないかと思ってたのに、お元気で・・・・・・お目出度う」と、挨拶した。

それ故、やむなく孫に話したのだった。去年の四月中旬定期診断を受けた医者から、持病の喘息もようやく完治して、これで病弱だった一生が終わったから、今度の誕生日には本卦帰りのつもりで赤いチョッキを着て、生まれかわって人生を再出発する還暦の祝いをするように言われた、と。

医者からそう喜ばされた翌々日、芹沢文学館の創立者岡野さんの秘書から電話で、頭取が赤いチョッキを贈りたいが受けてくれるかときかれたが、医者と頭取とは連絡があるは

ずはなく、私の喜びの波動が頭取に伝わったものと喜び、若い岡野さんの長い友情に感謝して、故郷の芹沢文学館でいただくと答えたことも話した。そして、当日(五月上旬)文学

館に出向くと、文学館前の松林に大きなテントが張られて、私の長寿を祝う会だといって、沼津市民や旧友が集まっているの仰天したことや、赤のチョッキをもらいに行ったのに立派な赤の上衣とグレーのズボンに赤のベレーをその日に間にあうようにとパリのモッシュ・エフィス商店から飛行便でとりよせてあるばかりでなく、皆私が数えで八十歳

を迎えるという祝辞を述べるので、私はただ当惑して、あくまで還暦を迎える挨拶と謝辞をのべたことを話して、



「歳月は不思議なものでね、個人によって速度がちがうものらしく、生まれた年から数えれば八十年かも知らんが、知能も体力も還暦の六十一歳だと、去年名医が保護してくれ

たから、僕は還暦二年、六十二歳だよ。今年も大いに勉強しようと、一年の計を樹てているのだよ。特に、去年、還暦の祝いに故郷の村のお偉方も出席していて・・・多年の「村

八分」を解除しようと、考えたのだろうね。それから十日後、むらを挙げて公会堂に集まり、僕が講演することで、村八分の解除の手打ちができたのだからね、七十何年ぶりか

で・・・・・

その点でも、僕はすがすがしくなって、

新しい気持ちになり切らなければならないよ」と、加えた。


「村八分って、一体なんのこと?


「村の不文律のおきてを破って、中学生になったからと言って、誰も挨拶してくれなくってね、僕を仲間外れにしたのさ。ずっと村の人の扱いをしてくれなかった。文学館が松

原にできてからも、村にはこだわりがあったようだものな」


「わたくし、おじいさまのこと、何も知らなかったわ。 おじいさまに中学生の頃があったなんて。ね、昔のこと聞かせてー」


「そうだな、僕がパリで勉強した頃は、パリの新年はやり切れないほど淋しくて・・・チョコレートを持って知りあいの老人を訪ねると、必ず過去のことを話してくれたが、そう

いう伝統だったよ。・・・・・・そうだ、お

前は僕が三つの頃に両親にすてられたことも、知らないのだったな」

三歳の時に両親にすてられれば、人間は捨犬のような本能的な感覚を持つようになる。その上貧困であれば、雑草のように強靭でなければ生きられない。そのことがわが一生に

どう影響したか、孫娘にどう話すべきかを迷ったが-

つづく

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posted by セリブン at 19:37| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2022年10月01日

芹沢文学愛読者短信 2022年 9月15日 芹沢文学愛読者の会

女王様のお気遣いに触れて          平石政行(三重県鳥羽市)


エリザベス女王の訃報をラジオで耳にしたのは九月九日の早朝でした。異国の女王様ながら親しみを覚えるのは、直に一度お見掛けした記憶があるからでしょうか。

時は四十七年も前に遡ります。 当時私は鳥羽市内に在るミキモト真珠島に勤めていました。

この小さな島に英国の女王様がお見えになるというので社内は大騒ぎです。 社員百名余りの中で男子は僅か二十数名、各自綿密な役割分担と行動計画を基に五月十一日を迎え

ました。

私はパッキンガム宮殿直属のマスコミ関係者数名と小型船に乗って海上待機、 陸上から海女作業をご覧になられる女王様を、海を隔てた船の上から取材するという趣向です。

「どんな質問にも答えられるようにしておけよ」と、上司に言われて勉強したことを記憶しています。

四十名の海女さんが一斉に海に飛び込みました。海一面、 白い花が咲き揃ったような美しさです。

海女さんの一挙一動に、真剣に見入っておられた女王様のお姿が、 今も脳裏に鮮明です。

当初の予定より少し早めに終了のサインが出ました。

「海女さんたちが寒いから・・・」という女王様のご配慮であったことを後から知り、思いやり深いお人柄に触れる思いがしました。

後にも先にも例を見ない客のおもてなしも無事終えました。

携帯もスマホもない時代に、人海戦術で互いに連絡を取り合って、よくやったなと思いす。

二十八年近く勤めさせて頂いた私にとっても、忘れることのできない大切な想い出です。


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posted by セリブン at 11:14| Comment(1) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋