seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢文学愛読者の会 名古屋: 芹沢光治良文学愛好会

2025年05月20日

芹沢文学愛読者短信 第236号 2025年4月30日 芹沢文学愛好会愛読者の会

芹沢文学愛読者短信

236


2025

430日 芹沢文学愛好会愛読者の会


『愛読者の集い』について (報告)

『芹沢文学愛読者短信』ですが、しばらくの間ごぶさたしていました。

この間、皆様にご協力をいただき今年初め「紙上 3分間スピーチ第5号』を完成し送付しました。


『愛読者の集い』について

『愛読者の集い』につきましては、現在検討中の途中経過をお知らせいたします。


「愛読者の集い」について



『愛読者の集いは』いつも昼食を挟んで共に語り合い楽しんで参りました。

 会場はこのところ13年間ずっと『ウィンクあいち」を利用してきました。

 その間に準備委員の皆様の高齢化が進み、会場の設定に支障が出てきました。

 それは、会場設定のための机、椅子の移動です。いつも利用していますあの部屋は、会議室用として机、椅子が配置されています。

 そのため準備委員が机、椅子を移動して皆様とのお話がしやすく、聞きやすいようにと並び替えて白布をかけてきました。終了後は、白布を外して元通りの会議室用に並べ変えが必要です。こうした机、椅子の作業は力仕事であり、高齢化に伴い難しくなってきました。

そこで、ただいま検討中なのは、すでに設定された会場を利用してはどうかということです。

 例えば同窓会、OB会などで利用している会場です。さっそく、交通の便をも考慮して探してみますと、多くの場合『会場利用は食事を入れて2時間です。今までと比べ随分時間が短縮された集いとなり、内容の縮や検討が必要です。それでも一度試みて見てはと、この秋に実施を目指して、ただいま取組中です。

決まり次第『愛読者、秋の集い』として、お知らせいたします。


(紙上3分間スピーチ)、第5号を読んで


(敬称略)


楽しみに待っておりました。ありがとうございます。この大変な作業を思いますと、どれだけ感謝しても尽くせないものを感じます。洞谷)


手作りの冊子を手にして、コロナも悪い事ばかりではなかったと思いました。これから過ご

す日々をあたたかく伴走してくれます。(河野)


スピーチ集ありがとうございます。きっと皆様のお手元で時々読み返して、ほっこりする

ことと思います。野沢)


表紙に入っています。アスパラの芽の一つ一つが芹沢光治良先生と言う大樹に集う読者に思えてなりません。生命力の強い、アスパラから生きる力と喜びを得る、あなたの声をも聴こえてきます。平石)


生涯の宝がまた増えました。皆々様の熱い生き様をお手本に、精一杯頑張ろうと私の中に新たな意気が湧くのを覚えます。(本田)


五冊のスピーチ集は宝物です。今回は病気と戦ったと言うお話が多いように思います。困難を乗り越えたお話からも力をいただきました。(坪山)



毎日少しずつ楽しみに読んでいます。杖を頼りの生活にも慣れてきました。ゆっくり動いて

おり行動範囲は団地の中。読書サークルに出席。(内野)


皆さんの手書きで書かれたスピーチは素晴らしいです。楽しく読ませていただきました。

(鈴木和子)


コロナ禍で対面が難しかったときに、この冊子が大きな力となったことでしょう。言葉には

人を励ます力があることを痛感します。

(鈴木吉継 )


皆さんのスピーチからお顔を思い出し、芹沢文学に対する思いが熱く伝わってきます。

(伊藤みち)


あたたかい表紙絵はじめにの文、おわりのことぼ伝心。昨年は入院中の枕元に。今年も良き睡眠薬になって、もらえます。(稲垣)


一回全部目を通して、再び読んで時間を置いて、また手に取って読んで、芹沢文学の歴史を

しみじみ感じす。(亀井)



スピーチを読ませていただくたびに、皆様を思い出しています。芹沢先生の本を身近なところに置いて読んでいきたいと思っています。

(新美)



お一人お一人の個性と熱い思いが伝わってきます。ゆっくり読ませていただき嬉しく思いました。(荒川)


五年間も続いたスピーチ集年末になったら何を書こうかと、考えるようになりました。

(岡崎)


スピーチ集を手にした重みが心地よく、読みやすく、一人一人に語り掛けてくださるようで幸せです。感謝のほかありません。 (西田)


長らくすばらしい集いを実施してこられたことを、改めて認識するところです。(井上)


3分間スピーは会の絆で、最高傑作集です。(高村)


3分間スピーチ読ませていただきました。希望を持ち、健康に留意し生きていこうと思います。(平田)


お詫び


紙面の都合で、お寄せ下さった全員の皆様のご感想を掲載できませんでしたこと

お許し願います。



名古屋芹沢文学読書会

名古屋市港図書館

地下鉄「港区役所」下車スグ

午後1:30~4:30

242令和7511 ()

「『神の慈愛』10

posted by セリブン at 15:36| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2024年04月07日

第232号 芹沢文学愛読者短信

第232号
芹沢文学愛読者短信
芹沢文学愛読者の集い
令和6年(2024) 6月9日(日)
長いこと、 お休みにしていた「芹沢文学愛読者新年会」
が 「芹沢文学愛読者の集い」 として再開します。
実施時期は、寒い1月を避けて陽気の良い6月としました。
このほど新年会準備委員による打ち合わせで、 下記の通
り決まりましたのでお知らせいたします。 皆様のご参加を
お待ちしています。
1) 日時: 令和6年6月9日 ( 日 )
10時00分~16時00分
2024年
2) 会場: 『ウインクあいち』 会議室 (名古屋駅前)
3月30日
芹沢文学
11階 1103室
愛読者
の会
3) 会費: 1万円
当日ご持参ください。
(昼食代など含みます)
当日、会費の受け取りをスムーズに
進めるため、各自に届いた短信の空き
封筒に、会費を入れてお出し願います。
4) 申し込み: 同封のはがきで
4月30日までに。
5) 二次会は;会場の都合で
お休みです 。

自伝抄 5回

捨てだか雑草のように

芹沢光治良


不文律破り中学へ


ただ悲しかったのは、私はこの家の子でなく、祖父や叔父達みんなを不幸にして故郷を逃げた父の子で、何処へも行く処のない厄介者だとい

うことだった。それをはっきり知らされたのは、御用邸に高貴の方がお成りになるのを、小学生が道路にならんで迎えるのに、帽子をかぶらなければいかんと先生に言われて、祖母に帽子を買って欲しいと頼んだ時だった。裏の家の一年下の従弟が帽子を買ってもらったから、私も買ってもらえるものと思ったが、突然祖父が小さい私に飛びつくようにしておさえつけて、左手の人差指に灸をすえた。そんな目に何故あうか解らなかったが、もぐさが燃える熱さに

たえられなく、助けて、助けてと泣き叫んだ。裏の家の叔母が駆け付けたから、助けてくれるものと安堵したが、反対に家の叔母と二人でおさえつけて、もぐさに火をつけるのを手助けした。私はかんねんして泣きやみ、死ぬまで焼いてくれと、ふてくされた。

 その灸ねあとは現在も残っている。泣きながら聞いた祖父の言葉も覚えている―お前はみんなの厄介者だぞ、みんながおちぶれたのも、お前の親爺のせいだというのに、贅沢ばかり言って・・・・・性根を入れかえろ・・・・・と。 そばで呆気にとられたようにしていた祖母がこの子の咎

ではないのにと、言ったことも。

 その時、その夏伝染病で死んだ隣家の清ちゃんのことを思って、私も死んだ方がいいと、子供心に考えた。



 これを書くことは故郷の人々は嫌けれど、明治はいい時代だったと考える人があるが、農民や漁民にはさして良い時代でなかった証拠に、書き留めるので許してもらうのだが、貧しい私

の村に、年に二回男の子を数人売りに来る男があった。

 私の村よりも貧困な村があって、ロべらしのために小学校二、三年生の男子が五円から十円で売られて来た。

 子供というものは残酷な現実家で、買われた子供の名の上にいつまでも値段をつけて、十円の正ちゃんというように呼んで、自分はこの村のだというように区別した。

 祖父から家の厄介者だときめつけられて死んだ方がいいと思った時、私は心がませていたのか、買われた子供を思って、自分はただで買われたようなものだと気づいた。

 買った子供が厄介者でないのなら、ただで買われた自分はもっと厄介者でないはずだと。その考えで、私は助かった。

 買った子にしろ、村の子にしろ、網元の子以外はだれでも小学校を出れば一様に漁師になり、十五六歳になれば若い衆となって、一定の宿に寝泊まして海難救済会の一員になる。 

って、男の子は家にとっても、村とい共同体にとっても、将来の大切な担い手だ。それ故、小学校の二、三年生になれば、夏休みには待ちかねて舟にのせて沖へ連れて行く習慣であった。

言葉をかえれば、村の男の子はみな漁師になるという不文律があった。

 それなのにどうして私が中学校へ進学を希望したか。 どうしてその希望がかなえられたか。今考えても不思議でならない。


つづく

posted by セリブン at 23:25| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2023年11月03日

名古屋愛読者短信 第231号

名古屋文学愛読者短信 第231

20231030日 芹沢文学愛読者の会


4『令和6年紙上3分間スピーチ』

作成について

前号の短信 (230でお知らせしましたように、毎年1月に実施していた新年会を、陽気の良い69(日曜日)に「芹沢文学愛読者の集い」として行います。さらに、3号まで発行した「紙上 3分間スピーチ」は好評につき、第4『令和6年、紙上 3分間スピーチ』と

して作成します。


記入要領

1 : 記入用紙は同封のハガキを使用。二枚同封で一枚は予備

(個人でお持ちの白紙のハガキにパソコンで印字も可)

2 :ハガキに記入する筆記具。

@黒のボールペン、黒のサインペン、万年筆 (黒インク使用)

A鉛筆は不可 (印刷機が読み取れないため)

3: 文章はハガキ一枚片面。

締切令和51220 ()

発行日令和6125日送付予定

ハガキの送付先、および連絡先


安井正二宛



名古屋芹沢文学読書会の開催予定です。

芹沢光治良著「神の微笑』

226 1112 (6

227 1210 (7

場所:名古屋市港図書館集会室 (二階)

時間午後1時半~4時半


自伝抄4

捨て犬か雑草のように

芹沢光治良


厄介者の餓鬼となる


 実際網元の旦那から、老いぼれの漁夫に転落して、しかも富裕な親類からは、信仰をうつされてはと、つきあいをたたれ、村の衆からも冷たい目を向けられる日々で、祖父が不機嫌になるのは当然だが、おまけに、暮らし向きが苦しくて好きな浄瑠璃もすてたから、時々は端の者に怒鳴りたくなっても無理はない。


 でも、私はこんなに落ちぶれたのは親

爺のせいだと、いつも叔母に言われるの

で、子供心に親爺に代ってやり切れない

思いだった。

 しかし、落ちぶれたとて、二人の叔母が

かたつくまではご飯に麦が入り、おかず

がなくなっても、西風の季節に絶食する

ほど貧乏ではなくて、さすが大釜の底だ

と、陰口をきかれたそうだ。


 下の叔母が嫁に行ったのは、小学校二

年生になったばかりの時で、私は小さな

家ながらも独り天下になったようで、家

中駆けまわってしかられたが、嬉しかっ

た。


 或る夜半、いっしょに寝ていた祖父の

言葉をきいてしまった・・・わしは、坊主さ

えいなければ、もう土をかぶりたい。あの東京の旦那は連れに来てくれないかね・・・くめ、あの時彼奴の希望通り沼津の兵学校にやっとけば、天理教に迷うこともなかったろうかなあ、と。

坊主とは私のことなので、全身を耳にした。

祖母が囁いた―ね、身を落として村のみんなと苦しみをともにすれば、神さんがみんなともどもに幸せにしてくれますよ。

 その数日後、祖母は町へ魚の行商を始

めたのだった。

 祖母が祖父の釣った黒鯛やせいごをもって町へ行商をはじめたことは、信仰上の英断だったろうが、わが家の零落した象徴のようで、村の衆の噂にもなり、親しい人を悲しませた。

 私は子供心に祖母をあわれんで、しばしば村はずれの道に立って一本路を町から帰る祖母を待ったものだが、それが土産欲しさにとられて、辛かった。


 祖母が行商をはじめて一年もしないで、叔父達が相談して、三男の叔父夫婦が相続者になって、わが家に移り住んだ。

 この叔父も父の被害者であるが、ただの舟子ではなくて一隻の漁船の持ち主であつたから、祖母は生活的に助かったが、担母は行商をやめなかった。


その時、叔父夫婦には私より年下の三人の子供があった。叔父も叔母も好人物であったが、この時から祖父はあからさまに私を厄介者扱いにした。

 学校から帰ると、一歳になる従妹の子守をさせられ、冬には週に二三回、近所の小学生といっしょに、牛臥山や焼き場のある松原に、落ち葉をかきに行かされた。

 その松原に現在私の文字館が建っている。文学館を訪れる度に、落ち葉が少なくて困った少年の日を思い出すが。


 浜に打ちあげられた木片をひろいに行った。夏には、祖父の黒鯛釣りの餌に、たにしを稲田に採りに行くのが私の役がだった。稲の葉に目を突かれて田を這ううにして、両手でたにしを探していると必ず農民に見つってーこの餓鬼、また田にはいったなと、遠くから怒鳴られて一目散に逃げ帰ったが、その頃には私は

もう坊ちゃんではなくて、家でも餓鬼だった。


 そんなことは悲しくはなかつた。明治時代の資しい漁村では、子供はみなそんな扱いを受けたから。冬には西風が激しくて三か月ぐらい出漁できなくて、小学生も弁当にさつまいも一切れとか、正月の残り餅一切れを持参できれば

いい方で、何も持って行けないで、昼の鐘が鳴るとすぐ外へ出て井戸水を飲んで、飢えを耐

えた。その人数が多いから、子供も臆することなく我慢できたが、学校でも同情しなかったし、問題にもしなかった。


つづく

posted by セリブン at 08:55| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋