seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢文学愛読者の会 名古屋: 芹沢光治良文学愛好会

2026年04月19日

芹沢文学愛読者の会  芹沢光治良文学愛読者の会第240号  

旧石丸邸訪問



旧石丸邸での芹沢光治良文学愛好会(東京)読書会に参加して


平石政行


三寒四温の四文字をなぞるように、着たり、脱いだりを繰り返す毎日ですが、安井さんご夫妻にはお変わりございません


か。季節の変わり目は要注意です。ご自愛くださいませ。



去る二月二十六日()久々に上京し、芹沢文学愛好会読書会に参加しました。会場は、近々取り壊されると言う情報を得豊田英文会長が急遽お手配くださった、森次郎と田部氏ゆかりの『旧石丸邸』です。地下鉄広尾駅から徒歩五分木立の中に昭和レトロの空気を纏いながら、ひっそりたたずむ洋館は、今なお結婚式場として活用されていました。


一歩中へ入ると、室内の洋館の家具や、調度品、電気器具など、どれも当時のものを大事に使おうと言う現使用人の心意気


が感じられます。若き日の次郎と同じ場所で同じ空気を吸っているのだ・・・、と読者冥利に尽きるひと時でした。


読書会のテキストは誰にもなじみの深いエッセイ「野の花」でした。


今ならともかく、あの時代に、一時間新聞を読むことを許してくれる伴侶でなければと、自らの意思を貫き通した岡島はるさん


の真摯な生き方に、賞賛と共感の声が集まりました。


 また、エッセイを読みながらしたと言う女性読者が何人も見えました。


  もう一つ嬉しかったのは、読書会の輪の中に、新潮社の北村暁子さんがいらしたことです。『神シリーズ全八巻』の発刊にあたり、編集者として、作家芹沢光治良氏をお支えになったご婦人でした。


「芹沢先生は、日本の物故作家の中で今なお全集が売れ続けている稀有な作家のお一人です。」


読者にとって勲章のようなお言葉をいただき、改めて芹沢文学を愛読し続けてきてよかった二十三人の参加者こころ一つにして、旧石丸邸を後にしました。

「三人の日と書く春を待ち望む雪が溶けたら又会いましょう」


いつの日か朝日歌壇で目にしたこの歌を、この時期になると思い出します。


春になったら安井さんご夫妻との再会の叶うことを願って、ペンを置きます。


三月六日


                               平石政行




226日に東京で、芹沢光治良文学愛好会読書会が行われました。この読書会に平石政行さん(三重県)が出席されました。その時の様子を安井正ニ宛の手紙でご報告くださいましたので、ここに紹介させていただきました。安井正ニ記






自伝抄 第八回



家庭教師で一高パス



貧困はそれ自身悪ではないが、無知を伴って人間をどれほど不幸にするか。それを私はそれまでの暮らしではっきり識った。


中学校の五年間、強制的に日記をつけて、毎週修身の日に提出したが、学校では書いているか否かたしかめるので内容は読まないと、言ったのにかかわらず、校長は私の日記を全部読んだのにちがいない。


入学試験に失敗した報告をすると間もなく、八、九月の俸給をもらって、代用教員を辞める手配をして、すぐに原町の豪家に住みこむように、はからってくれた。中学二年生の家庭教師という名で、私に静養する家を提供してくれたのだから植松家では、富士山に向きあった二階の八疊二間を私に提供した。三時間、二年生とともに勉強することが、私の役目だったが、重雄君は


すなおな生徒で、面倒はなかった。


食事は三度とも食堂で家族ともにするが、三度ともお祭りの日のようなご馳走で、人間の食事はこういうものだったかと驚いた。


家族は多かったが、穏やかな人々で、食事の時になごやかに顔を見せるだけで、たがいに人格をみとめあっているのか、あとは各自独立の仕事をしていた。

これが家庭というものかと感心したが、足をのばせる自分の部屋のあることが、どんなに幸せであったか、私は終日好きなように勉強し、この家の名苑を散歩などして、それまで自分は親からすてられてかくれる小屋もない捨て犬だったと気がついた。


posted by セリブン at 15:06| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2026年01月03日

芹沢文学愛読者短信 No239 2026年1月1日 芹沢文学愛読者の会

あけましておめでとうございます

新しい年を迎えました。今年もどうぞよろし

くお願いたします。

お知らせです

1)昨年末に、芹沢先生の「狭き門より」が再刊行されました。芹沢先生の本がこうして装いも新たにして出版されます事は、読者にとって嬉しい限りです。

2)沼津市芹沢光治良記念館では、企画展「光治良思い出の風景富士山に怒鳴られた~が開催されています (令和8531日まで)

3) 名古屋芹沢文学読書会の皆様のご尽力をい

ただき、今年も陽気の良い時期に集いを持ちたいと思います。決まり次第連絡い

たします。


昨年119日、名古屋芹沢文学読書会に鈴木吉維(よしつな)先生が出席してくださり、神シリーズについてお話しくださいました。聴講された沢田様に、その時のことお願いして書いていただました。


鈴木先生の(神シリーズ)講義を聴いて

沢田昭人(豊田市)

先月(十一月)、芹沢文学の研究者である鈴木吉維先生の名古屋芹沢文学読書会への来訪があり、神シリーズについての講義を受ける機会がありました。

先生の講義形式は通常と異なっていて、講師が一方的に解説するのではなく、質問を投げかけ、受講者にその問題について考えさせ、講師と受講生との間で討論をしていくという形のものでした。

そこで質問というのが三つあって、

()神を信じているか?

(ジャックは実在の人物か?

(神シリーズは事実か

虚構か?

()については、神を信じる人もいればそうでない人もいる。

 芹沢先生は神を信じ切っている。そのよう

な人の作品を私たちはどう受け止めるべきか。

 私は個人的体験から何か不思議な正体のわからない、大きな力によって守られていると感じることができますが、漠然としていて神を信じるに至っていません。

()については、芹沢先生はご自分を実証主義者だと言われています。つまり、何らかの根拠

がない限り、ある事象や現象を信じないとい

う立場をとられています。

 だから神や神秘的な事柄についてどのよう

に認識したら良いかと言うことで、宗教と科

学について深い洞察力を持った人物を登場させて、より深く宗教を理解しようとしたので

はないかと思います。


()については、芹沢先生は、神シリーズは全て親神様の指示に従って

書いたと言われています。私たちは、神シリーズを聖書のように読んでいけば良いのでは

ないかと考えました。

 芹沢先生は、ご自分の長い人生経験を通して、社会の底辺で苦しんで生きている人々

に対して、救いの手を差し伸べるのではなく、彼らと寄り添い、苦しみや楽しみを分かち合って、さらに彼らの生活をより豊かなものにしようと努力されてきた方だと思います。だからこそ、神シリーズは神の立場に立って、多くの

人々のために、尽くしたいと思われたのではないかと思います。

 こうして書いたことが正解なのか、どうかわかりませんが、文学では科学と異なって、正解が立った一つではないと思います。

 考えれば考えるほど、いろいろな答えが出てくるように思います。

 このような機会を与えてくださった鈴木先生に感謝の意を表したいと思います。

posted by セリブン at 21:52| Comment(1) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2025年10月06日

芹沢文学愛読者短信 2025年10月3日 芹沢文学愛読者の会

248名古屋芹沢文学読書会 (案内)

令和7119 (午後1:30~午後4:30

内容:芹沢光治良著「神の計画」3章を読みます。

就書会会場:名古屋市港図書館集会室 (2)


改札口を出るとすぐにエレベーターがあり、

それに乗り、地上に出た目の前が港図書館の入口。

当日は講師として、

沼津市芹沢光治良記念館助言者鈴木吉先生が

東京からお越しくださいます。

鈴木吉維 (すずきよしつな)先生は神奈川県立

高等学校に勤務されていたときから、芹沢文学研究に携わり著書に『芹沢光治良研究』『芹沢光治良救済の文学』など多くの著書があります。

芹沢文学研究の第一人者で、芹沢先生とも懇意にされていました。

読書会に出席希望のかたは、参考資料を当日お渡ししますので

下記宛に電話かハガキで申し込みください。


申し込み締め切りは、電話、ハガキ共に1020 (必着。


自伝抄

7

捨て犬か雑草のように

芹沢光治良

人の情と好成績が救い (つづき)

月謝二円、校友会費三十銭で残りの七十銭で、一か月の学費や衣服費をまかなうのは、大変だったが、入学祝いに海軍軍人から送られた五円で助かった。

 その上、予期しなかったことだが卒業するまで成績が全学級で一番か二番で二年生からずっと特待生を続け月謝が免除され、毎月二円七十銭の学費のある中学生になれた。

 ただ、家の者にも村の衆にも、常に何かうしろめたさを感じて、自然に目がさがり、異端者のような悲哀がう疼いてならなかった。

一年生の時、天理教の宣教所が突然に県庁で認可になったとて、祖父の家の屋敷を一つつぶして西側の狭い空地に、増築のようにして教会ができた。

 二十年近く前に出願したので、その時認可になれば、父も財産をすてないで、すんだろうにと、祖父は不満で、その認可にも増築にも反対して、教会が完成する直前に神経痛で死んだ。


 教会といっても、十畳の座敷と同じ広さの板の間の神床のあるだけの粗末なもので、隣家の清ちゃんの父親が、朝晩二回神饌の世話をしていたが、祖父の家に増築した形なので、教会の費用は一切わが家の負担になった。

 そのことが、叔父一家に不幸になって

のしかかった。

 祖父の死後一年半ばかりして、叔母が四人目の子を流産して死亡したが、同じ頃祖母も栄養不良と過労のため白内障で視力を失った。

 その一年ばかり後に、叔父は再婚したが、その叔母は男の連れ子をして、口数の多い気の荒い人だったから、私には針の筵の上で暮らすような朝夕になった。

 ただ教会の十畳の片隅に机をおいて勉強もし寝泊まりできて助かったが、毎晩集まって来る漁師のおかみさん達の、たがいに話しあう不平や愚痴や貧乏話を傍聴して人間の憐憫さに静かに勉強もできなかった。

 三年の学年試験中にひいた風邪がなおらないで、翌年の体格検査の時、校医か乾性肋膜炎であるから休学して栄養をとれと、注意を受けた。

 もちろん医者にかかれないし、栄養をとるなど夢物語で、そのまま通学をつづけた。学校から保証人に同じ注意があったらしく、天理教の偉い先生方が次々に訪ねて来て、私が難病にかかったのは、学問をやめて天理教の青年になって奉仕生活をせよという神の啓示だとしつこく

説いて、直に退学するように責めたて幼時から、風邪でも腹痛でも薬ものまずに神の意思は何かと反省する習慣だったから、乾性肋膜炎についても、私は天理教的発想で原因を独り必死に探究した。従って、先生方の忠告が納得できなくて、そんな神なら信じないと宣言し、死んでもよしと覚悟の上で、一日も休まずに中学校を卒業した。

 その四月から沼津町の男子小学校の代用教員をして、七月に東京の第一高等学校の入学試験を受けた。

 学科は出来たが、体格検査で――この健康では寮生活が不可能だから、一年静養して来年来るように宣告された。


posted by セリブン at 20:28| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋