seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢文学愛読者の会 名古屋: 芹沢光治良文学愛好会

2022年12月01日

芹沢文学愛読者短信 2022年11月3日

『令和5年紙上3分間スピーチ』

来年(令和5)も新年会が中止

要領

となったことで、『令和5年版、紙上

3分間スピーチ』 を作成します。

『記入要領』は次の通りです。 よろ

しくお願いいたします。

記入要領

記入用紙は同封のハガキを使

用。 二枚同封で一枚は予備用

(個人でお持ちの白紙のハガ

キにパソコンで印字も可)

2 :ハガキに記入する筆記具。

@ 鉛筆は不可(印刷機が読み取

れないため)

A 黒のボールペン、黒のサイン

ペン、黒インク使用

文章はハガキ一枚片面で。

締切・令和41220()

発行日・令和 5

25

送付予定

ハガキの送付先、連絡先

安井正二宛


『自伝抄』


芹沢先生が 80 歳の時、 読売新聞に連載さ

れた 『自伝抄』をご紹介します。

新聞記事をコピーしましたが、 45年も前の

新聞とあって、活字は小さく、新聞紙は色あ

せて読みにくい仕上がりになってしまいま

した。

そこで、パソコンで書き写しました。 内容

は先生が過ぎし日を思い出され、 32歳まで

の日々を、語りかけるように書かれたもので

す。 楽しみにご期待ください。


昭和52(1977) 15


1


三つの時、両親が蒸発


今年の元旦には、孫娘の一人が五年ぶりにパリから帰ったとて、訪ねて来た。 去年パリの音楽院を卒業するなり、パリのプリ・オケ(オーケストラ・コンセルバトアル)の団員に

なったので、ようやく年末休暇で日本に帰れたというのに、三日にはもうあわただしくパリへ発ったのだが


「おじいさまは還暦二年の八月ですって八十歳ではなかったの」と、訝しげに私の赤いチョッキに目をおいて、「お弱かったから、もうお目にかかれないかと思ってたのに、お元気で・・・・・・お目出度う」と、挨拶した。

それ故、やむなく孫に話したのだった。去年の四月中旬定期診断を受けた医者から、持病の喘息もようやく完治して、これで病弱だった一生が終わったから、今度の誕生日には本卦帰りのつもりで赤いチョッキを着て、生まれかわって人生を再出発する還暦の祝いをするように言われた、と。

医者からそう喜ばされた翌々日、芹沢文学館の創立者岡野さんの秘書から電話で、頭取が赤いチョッキを贈りたいが受けてくれるかときかれたが、医者と頭取とは連絡があるは

ずはなく、私の喜びの波動が頭取に伝わったものと喜び、若い岡野さんの長い友情に感謝して、故郷の芹沢文学館でいただくと答えたことも話した。そして、当日(五月上旬)文学

館に出向くと、文学館前の松林に大きなテントが張られて、私の長寿を祝う会だといって、沼津市民や旧友が集まっているの仰天したことや、赤のチョッキをもらいに行ったのに立派な赤の上衣とグレーのズボンに赤のベレーをその日に間にあうようにとパリのモッシュ・エフィス商店から飛行便でとりよせてあるばかりでなく、皆私が数えで八十歳

を迎えるという祝辞を述べるので、私はただ当惑して、あくまで還暦を迎える挨拶と謝辞をのべたことを話して、



「歳月は不思議なものでね、個人によって速度がちがうものらしく、生まれた年から数えれば八十年かも知らんが、知能も体力も還暦の六十一歳だと、去年名医が保護してくれ

たから、僕は還暦二年、六十二歳だよ。今年も大いに勉強しようと、一年の計を樹てているのだよ。特に、去年、還暦の祝いに故郷の村のお偉方も出席していて・・・多年の「村

八分」を解除しようと、考えたのだろうね。それから十日後、むらを挙げて公会堂に集まり、僕が講演することで、村八分の解除の手打ちができたのだからね、七十何年ぶりか

で・・・・・

その点でも、僕はすがすがしくなって、

新しい気持ちになり切らなければならないよ」と、加えた。


「村八分って、一体なんのこと?


「村の不文律のおきてを破って、中学生になったからと言って、誰も挨拶してくれなくってね、僕を仲間外れにしたのさ。ずっと村の人の扱いをしてくれなかった。文学館が松

原にできてからも、村にはこだわりがあったようだものな」


「わたくし、おじいさまのこと、何も知らなかったわ。 おじいさまに中学生の頃があったなんて。ね、昔のこと聞かせてー」


「そうだな、僕がパリで勉強した頃は、パリの新年はやり切れないほど淋しくて・・・チョコレートを持って知りあいの老人を訪ねると、必ず過去のことを話してくれたが、そう

いう伝統だったよ。・・・・・・そうだ、お

前は僕が三つの頃に両親にすてられたことも、知らないのだったな」

三歳の時に両親にすてられれば、人間は捨犬のような本能的な感覚を持つようになる。その上貧困であれば、雑草のように強靭でなければ生きられない。そのことがわが一生に

どう影響したか、孫娘にどう話すべきかを迷ったが-

つづく

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posted by セリブン at 19:37| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2022年10月01日

芹沢文学愛読者短信 2022年 9月15日 芹沢文学愛読者の会

女王様のお気遣いに触れて          平石政行(三重県鳥羽市)


エリザベス女王の訃報をラジオで耳にしたのは九月九日の早朝でした。異国の女王様ながら親しみを覚えるのは、直に一度お見掛けした記憶があるからでしょうか。

時は四十七年も前に遡ります。 当時私は鳥羽市内に在るミキモト真珠島に勤めていました。

この小さな島に英国の女王様がお見えになるというので社内は大騒ぎです。 社員百名余りの中で男子は僅か二十数名、各自綿密な役割分担と行動計画を基に五月十一日を迎え

ました。

私はパッキンガム宮殿直属のマスコミ関係者数名と小型船に乗って海上待機、 陸上から海女作業をご覧になられる女王様を、海を隔てた船の上から取材するという趣向です。

「どんな質問にも答えられるようにしておけよ」と、上司に言われて勉強したことを記憶しています。

四十名の海女さんが一斉に海に飛び込みました。海一面、 白い花が咲き揃ったような美しさです。

海女さんの一挙一動に、真剣に見入っておられた女王様のお姿が、 今も脳裏に鮮明です。

当初の予定より少し早めに終了のサインが出ました。

「海女さんたちが寒いから・・・」という女王様のご配慮であったことを後から知り、思いやり深いお人柄に触れる思いがしました。

後にも先にも例を見ない客のおもてなしも無事終えました。

携帯もスマホもない時代に、人海戦術で互いに連絡を取り合って、よくやったなと思いす。

二十八年近く勤めさせて頂いた私にとっても、忘れることのできない大切な想い出です。


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posted by セリブン at 11:14| Comment(1) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋

2022年06月24日

2022年6月20日  第226号 芹沢文学愛読者短信 芹沢文学愛読者短

 沼津市芹沢光治良記念館


一企画展一案内一


『孤絶』 『離愁』 『巴里に死す』



芹沢光治良がフランスへ留学し、スイス等での結核療養を経て作家を志した転換期を基に創作した作品 『孤絶』『離愁』 『巴里に死す』 が通して紹介されます。



期間 第1615 ()1130 ()


1回の展示では「孤絶」


の書簡、資料などが初公開。


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今年も『紙上3分間スピーチ』完成



コロナ禍で新年会は中止となった。 そこで今年も 『紙上 3分間スピーチ』 を作成した。 第2号となった。


 今年は、 新年会準備委員7人が名古屋市の女性会館 (イーブル名古屋) に集まって製作した。 印刷機はハイスピードの最新機


が借用できた。 その結果、 順調に進んだ。製本、チェック、 封入は各自分担し合って流れよく進めた。 その結果ポストに夕刻前までに投函できた。


 今回は中島宣予さんが会場、 昼食、おやつまでお世話下さり大助かりだった。


今回担当くださった方々は、 中島宣予、前田操、 後藤智代、 近藤英子、 伊藤見枝子、安井恵美子、安井正二の皆様。





芹沢光治良先生八十五歳の近況を語る


毎日新聞 「お元気ですね」と題したインタビュー記事。


昭和551215日付



(病弱で) とても四十歳まで生きられそうもないだろうと思っていた」 人が、いま満八十五歳。トシをとってから逆に以前より健康そう、と知人たちをびっくりさせている。






昭和五年『ブルジョア」』で文壇にデビューしてから五十年。 『巴里に死す』などの作品で海外にも知られるこの人、六十代から七十代にかけて全十八巻におよぶ大河小説『人間の運命』を完成させ、その後も毎年一作のペースをくずさず、小説ひと筋に打ち込んでいる。



「そうなんですよ。 子どものころから病気ばかりしていましたからねえ」


立派な文学碑が立つ郷里・沼津で過ごした少年時代は極貧の生活だったから、ずっと栄養失調。長じてフランスへ留学しているとき肺結核で倒れ、スイスで二年近い療養所ぐらし。この病気は”規則正しい生活で二十年がかりでやっと克服した。と思ったら、こんどは五十三歳のときゼンソク、 これは持病となり、 七年前まで苦しめられた。


「ひどい目にあいました。それが、あるとき, アレルギーだということが判明して、二回ほど注射をしたらピタリと治まっちゃったんです」


病気ばかりしていたのに、とうとう八十を越えなお元気だというのだか


ら人間の運命なんてわからない。「戦前、葬式代のつもりで保険に入ろうとしたけど、入れてくれませんでね。


戦後には、アチコチの 保険会社が勧誘にきましたが、健康診断でみんなダメ。いまになってみれば保険会社は損をしたことになります」温顔がニッコリ。


「還暦のとき、あらためて私の人生は、拾いものだったなあと思いましたよ。そこで、よしこれからは頼まれ仕事はやめて 、好きなもの を書くことにしようと決心しました。欲を捨て、義理を欠き、自由に仕事をしようとね。きっと、それに徹したことが今日まで長生きできたことにつながるんじゃないでしょうか」『持ち時間を大切に』」がモットー。


起床、就寝、仕事、食事の時間はつねにきちんと守っている。これも長寿のヒミツだろう。家には奥さん(77)と娘さん夫婦


がいっしょ。


  健康法らしいこととして、三年ほど前から就寝前の三十分間、 足を組んで腹式呼吸をやっている。「八十を過ぎたのだから、いつ死んでもいいと思っていますが、生きているって面白いですものねぇ」


 画家の小山敬三さんとは五十年来の友人。その小山さんの近業に触れて、しみじみと語った。


「”富士”を見て。ムダにトシをとっていないなあと感心しました。実に見事。人生の冬を迎えながら、また春を迎えようとしている。私も見習いたいと思っています」








コロナ禍の影響もあって、短信もお休みしていました。このたび、沼津芹沢光治良記念館から、企画展の案内を頂き、お伝えしたくて久しぶりに短信作成を始めました。進めていると、手元の古いファイルから新聞の切り抜きが出てきました。見ると


40年も前の芹沢先生の記事。そこには、八十路を歩く先生の姿を見る思いでした。それは同時に森次郎の姿でもありました。そこで、その記事ここに紹介


いたしました。




posted by セリブン at 20:41| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋