自伝抄 第5回
捨てだか雑草のように
芹沢光治良
不文律破り中学へ
ただ悲しかったのは、私はこの家の子でなく、祖父や叔父達みんなを不幸にして故郷を逃げた父の子で、何処へも行く処のない厄介者だとい
うことだった。それをはっきり知らされたのは、御用邸に高貴の方がお成りになるのを、小学生が道路にならんで迎えるのに、帽子をかぶらなければいかんと先生に言われて、祖母に帽子を買って欲しいと頼んだ時だった。裏の家の一年下の従弟が帽子を買ってもらったから、私も買ってもらえるものと思ったが、突然祖父が小さい私に飛びつくようにしておさえつけて、左手の人差指に灸をすえた。そんな目に何故あうか解らなかったが、もぐさが燃える熱さに
たえられなく、助けて、助けてと泣き叫んだ。裏の家の叔母が駆け付けたから、助けてくれるものと安堵したが、反対に家の叔母と二人でおさえつけて、もぐさに火をつけるのを手助けした。私はかんねんして泣きやみ、死ぬまで焼いてくれと、ふてくされた。
その灸ねあとは現在も残っている。泣きながら聞いた祖父の言葉も覚えている―お前はみんなの厄介者だぞ、みんながおちぶれたのも、お前の親爺のせいだというのに、贅沢ばかり言って・・・・・性根を入れかえろ・・・・・と。 そばで呆気にとられたようにしていた祖母がこの子の咎
ではないのにと、言ったことも。
その時、その夏伝染病で死んだ隣家の清ちゃんのことを思って、私も死んだ方がいいと、子供心に考えた。
これを書くことは故郷の人々は嫌けれど、明治はいい時代だったと考える人があるが、農民や漁民にはさして良い時代でなかった証拠に、書き留めるので許してもらうのだが、貧しい私
の村に、年に二回男の子を数人売りに来る男があった。
私の村よりも貧困な村があって、ロべらしのために小学校二、三年生の男子が五円から十円で売られて来た。
子供というものは残酷な現実家で、買われた子供の名の上にいつまでも値段をつけて、十円の正ちゃんというように呼んで、自分はこの村のだというように区別した。
祖父から家の厄介者だときめつけられて死んだ方がいいと思った時、私は心がませていたのか、買われた子供を思って、自分はただで買われたようなものだと気づいた。
買った子供が厄介者でないのなら、ただで買われた自分はもっと厄介者でないはずだと。その考えで、私は助かった。
買った子にしろ、村の子にしろ、網元の子以外はだれでも小学校を出れば一様に漁師になり、十五, 六歳になれば若い衆となって、一定の宿に寝泊まして海難救済会の一員になる。 従
って、男の子は家にとっても、村とい共同体にとっても、将来の大切な担い手だ。それ故、小学校の二、三年生になれば、夏休みには待ちかねて舟にのせて沖へ連れて行く習慣であった。
言葉をかえれば、村の男の子はみな漁師になるという不文律があった。
それなのにどうして私が中学校へ進学を希望したか。 どうしてその希望がかなえられたか。今考えても不思議でならない。
つづく