案内通信 No. 179 2006年4月20日(月)
(令和8年)
柿若葉
春の陽ざしに
爽やかに
松林庵主人
桜の花が咲き、各地で花見が行われました。今年は物価高で、家庭で料理した弁当で我慢するのが多かったようです。アメリカとイスラエルの突然のイラン攻撃で、石油がホル
ムズ海峡で封鎖されて、世界各国で大騒動です。 休戦してパキスタンでの交渉が決裂して
います。 ガソリンの高騰だけでなく、石油製品も不足するので様々なものが値上げされよ
うとしています。 日本は石油の備蓄があり、自動車のガソリン代補助もあって、当分は心配無く過ごせています。 一番の心配は、イスラエルのネタニヤフの戦闘とアメリカのトランプの非常識です。 国際法無視の戦争はロシアのプーチンと共に、止めてくれ!!
初夏の良い季節になりました。どうぞ、お元気に読書会にお出掛け下さい。
第179回 芹沢文学読書会
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日時: 5月17日 (日) 午前10時~12時 [特別に第3日曜日午前です]
会場:大分県立図書館 研修室 No.1 [特別に研修室1です]
B内容:
[I] 芹沢文学に関する話題や情報 10:00~10:10 am
[U] 芹沢文学読書会 10:10~12:00 am
自由に話す。
○テキスト 新潮文庫 『結婚』 芹沢光治良作 (1995年7月10日新潮社発行)
157~199 ページ 「第六章」 「終章」 * 読んで来て下さい。
読書会では部分的に読んで語ります。 質問にも答えます。
◇父と母が離婚することになり、年子は津田を家に連れて来て、離婚届に署名して、
信州へ父と新子を見送ります。 母を連れて姉の家に連れて行き、 津田と一緒に鎌倉
へ。 年子は妊娠して、 津田との新しい家での幸福な生活が始まりました...。
昭和22年10月から23年10月に雑誌<婦人倶楽部>に連載され、
昭和23年12月30日 大日本雄弁会講談社から 『結婚』 として発行された。
=次回は、7月12日(第2日曜日) 午前の予定です。=
◎同封資料; 随筆 「弔辞 八月二十日」 日本ペン倶楽部副会長 芹沢光治良 昭和40年10月1日発行の雑誌<文芸>10月号 (河出書房新社発行) 158~159 頁に掲載された作家高見順氏の弔辞。
*この雑誌は、 河出書房新社の文芸誌である。 「谷崎潤一郎 高見順 追悼特集」 に、 日本ペン倶楽部で専務理事となって交流した高見順氏が死去したので、その弔辞として書いたものが掲載されていたので拡大コピー(×1.15) して同封資料とした。一読下さい。 〔同封資料提供者・中村輝子]
令8(2026)年4月20日(月)
編集・文責 小串信正(おぐしのぶまさ)
No.178
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☆第178回 芹沢文学読書会の報告
大分県立図書館研修室No5
第178回の井沢女学読書会が、3月8日(日) 大分県立図書館の研修室で行われました。
常連の参加者で、新潮文庫の長編小説『結婚』をテキストにして、あらかじめ読める人は「第四章」「第五章」を読んで来ることにしました。 父を入院させ、新鶴に帰り、思い詰めて自殺した弟でしたが、この病院の医師津田と交際した年子は求婚されました。 年子は津田に毎目のように恋文を書きました。 婚約して、 4月17日に大神宮で結婚式をし、大松閣で披露した。
逗子の海岸の淋しい旅館に新婚旅行し、 「あの人と二人海辺にならんで、ほうよりし、大自然の前で、二人が一人になる幸を感謝した。 二人は鎌倉に行き、歓待されました。 住が無く、実家の二回の二部屋に住み、新しい家を探した。父が買った千葉の田舎の家を買って住むことになります。母は行く所が無く、畳に顔を伏せて啜りあげています。
次回は、その続きの「第六章」「終章」について語ります。読書会お出掛け下さい
○令和7(2026)年度の年会費が未納の方に納入をお願いします。
振替の年会費納入の確認が出来なくなっているので、同封の年会費入金報告用 。
入金月日・金額・氏名を書いて、同封の封筒(切手は貼っています)に入れて御面倒ですが
返送して下さい。 寄付も受入れますが、無理をされないように。 芹沢女研究会の会員の方で、芹沢文学・大分友の会にも入会いただいている方々にも会員の継続をお願いいたします。
【芹沢文学案内 No.123】 芹沢文学の仏訳長編小説
芹沢光治良は、戦後に創作を始め、世田谷区の借家にて、多くの作品を著作しました。 戦中から結核闘病を自伝的に書き続けた『孤絶』 『離愁』を戦後に『故国』を書き継ぎ、三部作とした。 戦中に書き上げていた長編小説『懺悔紀』を美徳社から出版した。 片の 昭和25年春に、日本ペンクラブ広島大会に参加し被爆地を直接に見て、原爆の悲惨さを実感しました。 昭和26年にスイスのローザンヌで開催された世界ペン大会に日本ペンの代表として5月末から渡欧しました。大会後にレーザンの結核療養所を再訪し、帰路に7月から4ヶ月間パリに滞在しました。 学友や友人知人を訪ねて再会し、 作家になったことを知らせました。 生友から、作品を読みたいと仏訳をロベール・ラフォン社に紹介してくれました。 仏訳者があれば出版しても良いとのことで、当時パリに留学していた哲学者 森有正がアルバイトでやってもと了解し、仏訳出版契約を結びます。 社のアルマン・ピエラールが監修し、徹底した改訳で 1953(昭和28年9月8日に『巴里に死す』が出版され、多くの新聞で評価され多くの人々に愛読され、商業的にも成功しました。 ラフォン社から次作が求められて、 前年の10月から雑誌<婦人公論に連載した『一つの世界一またはサムライの末裔』 を二作目に選んだ。 青木和子仏訳・ピエラー監修で、 1955 (昭和30)年5月20日に『サムライの末裔』の題で出版されました。 広島の原爆がリアルに創作されていて、大変な評判となる。 第三作として『巴里夫人』 が小野吉郎仏訳・ピエラール監修で、 1958(昭和33)年10月6日に 『アイダ夫人』 の題で出版されました。 これらの仏訳にフランス詩人連盟からフランス友好国際大賞が授与された。 実は、この後に第四作『愛と死の陰に』 小野古郎仏訳が完成したが、何故かラフォン社から出版
されませんでした。 今後出版したいものです。