芹沢光治良が書いた『モーツアルトの結婚』の紹介文について、野沢様からコメントをいただけました。
ちょっと待ってェという感じで反応させていただきます。私が介入する事は、この場合、祖父、 芹沢光治良に反発する結果になるかもしれませんが、モーツァルト夫人であったコンスタンスは、 本来は姉貴に恋慕していたモーツァルトと結婚した後、何人もの子供を失った上に、天才と崇めていたいたダンナも亡くしてしまった後に、 結婚に対して大反対であったナンネルと教育パパでもあったレオポルドといった過程があったザルツブルグに移住して、 モーツァルトの銅像建造に奔走したり、今でも有名なMozart Kugeln標章のチョコレート等の、ザルツの土産物品を開発したり、 モーツァルト顕彰に関しては、最期まで頑張った凄い女性と、私は学びました。その意味ではコンスタンスこそ、「愛するものでなければ、 本当に作者の心をくみとってくれないというのが、あらゆる芸術を鑑賞する場合の心理である」を体現していたのではないでしょうか。 モーツァルトがザルツブルグに戻らなかったのは、結婚に反対した父親への返答ではなかったか?
当時の、ウィーンでの埋葬は、女性が墓地まで行けなかった慣習にも関係して、 ですから無名墓地に大多数一緒に放り出されてしまったモーツァルトの頭蓋骨を捜しだす為には、毒殺した本人とも、 ある史実には残っているサリエリの助力も得たそうですね、これは私、愛した者に対する怨念として受け止めました。 少なくとも宮廷シリーズ6曲、ウィーンシリーズ6曲、 三大ソナタと言われるピアノとヴァイオリンのソナタ15曲を必死に勉強した私が得た、作曲家の背景であります。そして今は、 何故モーツァルトがフリーメーソンと交わって、晩年に「魔笛」を作曲するに至ったか理解しようとしています。ええと、 魔笛公演に際しては、コンスタンスのみならず、かつて思慕していた義姉も「夜の女王」として歌っていたのではなかったかしら?
野沢様からのコメントを読んで、「モーツァルトがザルツブルグに戻らなかったのは」は「モーツァルトがザルツブルグに戻りたくなかったのは」と変更させて下さい。私の書き間違いでした。事実、モーツアルト夫妻は、結婚した翌年の7月にザルツブルクを訪問し、3ヶ月滞在しています。10月26日に『ハ短調ミサ』の初演で、「いとしの妻」はコンスタンツェによって歌われています。
この結婚について、父レオポルドは、「ふつりあいな結婚」に踏み切ったことに衝撃を受け、息子を捕まえようと徒労に終わった必死の試みを結婚前から開始します。歓迎されない結婚として例えば、前記のザルツブルク訪問の時コンスタンツェは実際舅から何一つ贈り物をもらっていません。指輪さえも。モーツァルトもこの父の態度については傷ついていたらしい。
モーツァルトの姉、ナンネルとモーツァルト夫妻との関係はどうでしょうか。ナンネルは父の死を、モーツァルトに教えていないだけではなく、危篤であることすら伝えていません。彼らの交信は1780年代の半ばころから極めて少なくなっています。彼らは、互いの結婚式に列席していないし、、互いに相手の子供達の顔も見たこともありませんでした。モーツァルトの死に関してもコンスタンツェの間とは何も交信がなかったらしい。
この事実から、モーツアルトの死後、出版されたモーツアルトの伝記は、「父に逆らって自分(モーツァルトのこと)にふさわしくない娘と結婚した。それゆえ、ヴォルフガングの死に際、そして死後も家庭に生半可ではないごたごたが生じたのだった」というナンネルの回想録をそのままシュリヒテルの伝記に引き写した。一方、コンシタンツェはニーメチェックに、自分に不利な所を除いて書簡の情報を提供し、夫の伝記を書かせている。この伝記の争いもコンスタンツェの二度目の夫ニッセンの手による「モーツアルト伝」をニッセンの死後2年目に刊行され、分裂した初期伝記群に終止符が打たれたとされています。
モーツァルトの死後に姉のナンネル、妻のコンスタンツェの立場の違いが表に表れたようです。
この流れの中で、「コンスタンツェの悪妻説」に説得力をもたしたのが、モーツァルトの埋葬についてです。野沢氏に書かれているように当時のウィーンの埋葬は、女性が墓地まで行けなかった慣習」があります。
モーツァルトが亡くなったのは、1791年12月5日です。この当時の規定によると冬は、遺骸を午後6時以前に墓地に運んではならないことになっていました。だから6時頃に、霊柩馬車について、聖シュテファン教会から聖マルクス墓地まで徒歩で行き、行けば帰らなければなりません。6時過ぎると暗くなり、街灯もなく、霊柩馬車を運転している者が酒好きだったら、途中に居酒屋があれば居酒屋によって墓地まで運んだという証言もあります。したがって女性だけでなく縁者はついて行きたくても行くことが出来なかったのです。モーツァルトの亡くなった夜は真闇で荒れ模様でした。死者への最後の祝別の儀式の時は、嵐が始まり風雨が強くなりました。雨混じりの雪の中、遺骸の野辺送りをしたのは少数の友人と3人の女性。ここにコンスタンツェがいなかった。
聖マルクス墓地に着いた遺骸は、一番手近の墓穴へ入れる。放り込んだらすぐ、シャベルで土をかける。衛生的になる目的で行われたそうです。
モーツァルトの遺骸の在処を知っているのは、墓堀人足だけです。
ヘルミーネ・クレーターの『W・Aモーツァルトの墓』によれば、コンスタンツェに、夫の墓に十字架を立てるべきだと最初に言ったのは墓堀人足です。ここでようやくモーツァルトが埋葬される場所を知っている人間が現れるはずでしたが、後にある人が当の墓堀人足に尋ねようと墓地に出かけたところ、その人足はいませんでした。そして発見できなかった。コンスタンツェは墓に十字架を立てるのは司祭の仕事だといって何もしなかった。ヨーゼフ・ダイナーに、コンスタンツェにこの簡単な仕事を実行するよう説得しましたが、「彼女から剣もほろろにあしらわれた」という。コンスタンツェは「司祭が十字架を手配するもの」と繰り返し、実際に建てられたかどうか、確認もしていません。コンスタンツェは自分をもっとも優しく愛してくれた人、その栄光ある名前で恩恵を与えてくれた人の埋葬場所を訪れたのはー既に所在不明の場所として評判になっていたがー17年の歳月がかかりました。
こうした行為が悪妻説につながっていると思います。アルトゥール・シューリヒトは、「こうした行為はコンスタンツェの冷淡さを示すだけではない。彼女が感謝と愛の気持ちを持って動かなかったことは、悪意でないとしたら激しい敵意の表示遺骸の何ものではない。」と言い切っています。
コンスタンツェについては、1988年、ハワード・チャンドラー・ランドンは、セクシーな仔猫で、残薄で、モーツァルトを理解する能力のない愚かな女で、家計の管理能力が欠落し、モーツァルトを性的に惑乱させた淫乱の悪女だったというこれまでの長きにわたって定着していた誹謗中傷の根拠は、レオポルドとナンネルの感情にあるとして、他には何処にも見いだせないと論証しました。
野沢氏の指摘はそのレッスンでの過程で得た貴重なコンスタンツェの事実だと思います。しかしハワードの説は、モーツアルトの埋葬については、どう結論しているのか興味があります。
投稿者: 管理人 日時: 2008年02月09日 07:08
2008年02月09日
モーツァルトについて 野沢さんからのコメント
posted by セリブン at 07:08| Comment(0)
| 芹沢光治良と音楽
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