声楽家の猪股典子先生ご指導による楽しく【童謡・唱歌を歌いましょう】に参加して
六月に猪股典子先生から「よろしかったら【歌う会】に参加しませんか」と案内をいただき
ました。歌うことが好きな私は、楽しみに出かけました。
会場は南山カトリック教会に隣接し、緑の樹木に囲まれ、しっとりと落ち着いた雰囲気の中
にありました。
ご指導くださる猪股典子先生落ち着いた色合いの和服姿で「きょうは一時間半、笑顔で楽
しく歌っていきましょう」とに
こやかに始められました。
季節に合わせた童謡、唱歌を十三曲を歌いながら、一曲ごとに歌の背景、エピソード、歌う
時のポイントなどを話され、丁寧に指導してくださいました。
『背くらべ』を歌う時、作詞海野厚にまつわるエピソードは、とくに心に残りました。
海野厚さんは、結核を病み家を離れ一人で暮らしていました。ある朝のこと、母は弟に「朝
ご飯を、厚兄さんに届けて」と頼みました。
しかし、弟はお母さんの頼みを聞かず、届けませんでした。
ところが、厚さんはその日に亡くなってしまいました。二十八歳でした。
弟はあの朝、なぜ、朝ご飯を届けなかったのか、悔やんでも悔やみきれない気持ちが残りま
このことは、その後、誰にも話しませんでた。
長い年月が過ぎたある日、新聞記者からインタビューを受け、長年心に秘めていた、あの日のことを話しました。
それから間もなく、弟も亡くなりました。
猪股先生は、「その記事は少し長いのですが、この曲を歌う時に参考になると思いますので。
全文を読みます」と言われて、一言一言、噛みしめるように読み上げてくださいました。兄弟
愛を感じる良い文章でした。
私たちがいま、歌っている重謡や唱歌は、大正時代に文部省や、文学者、音楽家たちが、子
どもたちが情緒豊かに育つようにと、心を込めて作ったものです。
猪股先生は最近、若い人から「子守歌って何ですか?」と問われて、驚かれたことがあり
「私たちが今、歌いつないでいかないと、この美しい童謡や唱歌はやがて忘れ去られてしまう
という危機感を強く感じていま
ず」と話されました。
最後は、先生と一緒に「子守歌(江子守唄)』『揺籃のうた」を歌って終わりました。
このとき先生が幼い子をあやす仕草で歌われたお姿が、やさしさにあふれ、一緒に歌っ
ている私までやさしくなっていくようでした。
後日、私は美輪明宏さんの著「私の人生論」を読んでいたとき、ある頁で目が留まりまし
「日本には聴いているだけで、心が癒され童謡や唱歌や叙情歌が数多く残されていて、
その歌詞は、まるで宝石をちりばめているように輝いている。
北原白秋作詞の「揺籃のうた』は子守歌としてぴったりだ。
このような良質な歌を聴かせてあげれば、その子はきっと優しい子に育つでしょう」。
と書かれていたのです。良い音楽を、後の人に残していきたいと願う強い思いを、お二人から感じました。
私は、いま人生の晩年を過ごしていますが、今回のことはさわやかな刺激となりました。
私も歌い続けていきます。
自伝抄第9回
捨て犬か雑草のように
芹沢光治良
続家庭教師で一高パス
これからは行く先々をわが故郷とし、暮らすところをわが家として、己を無にして心をひらいて接すれば、必ずわが親兄弟に
なってもらえるだろうと、希望を持った。
とにかく、植松家に十か月幸せに暮らし
たおかげで、翌年の入学試験には体格試験
もパスして、第一高校に入学した。
そして九月の初めに上京して北寮十番の
部屋にはいった。
入学してから上京するまで、わが家のよ
うに植松家に厄介になり、上京する時に
は時には、重雄君の母堂から休暇に
なったら、自分の家と思って、いつでも
帰ってきなさいよと、言われて、故郷に
わが家ができたようにうれしかった。
母堂のやさしいこの言葉は、生涯忘れら
れないほど有難く胸にしみた。
しかし、それからの一高生活は、学費の
問題で苦労した。
海軍の軍人の援助は中学校の卒業で終わ
り、半年間の代用教員の月給が九円であったが
食費代に月三円家入れ、入学試験のために費やして残り少なかったので、植松家で入学祝にもらった金を加えて五十円ばかり、差し当たり高等学校三年間の学費しかなかったが、
貧乏にはなれていたし、楽天的で苦にもし