第248回名古屋芹沢文学読書会 (案内)
令和7年11月9日 (日) 午後1:30~午後4:30
内容:芹沢光治良著「神の計画」第3章を読みます。
就書会会場:名古屋市港図書館內集会室 (2階)
改札口を出るとすぐにエレベーターがあり、
それに乗り、地上に出た目の前が港図書館の入口。
当日は講師として、
沼津市芹沢光治良記念館助言者鈴木吉先生が
東京からお越しくださいます。
鈴木吉維 (すずきよしつな)先生は神奈川県立
高等学校に勤務されていたときから、芹沢文学研究に携わり著書に『芹沢光治良研究』『芹沢光治良救済の文学』など多くの著書があります。
芹沢文学研究の第一人者で、芹沢先生とも懇意にされていました。
読書会に出席希望のかたは、参考資料を当日お渡ししますので
下記宛に電話かハガキで申し込みください。
申し込み締め切りは、電話、ハガキ共に10月20日 (月) 必着。
自伝抄
第7回
捨て犬か雑草のように
芹沢光治良
人の情と好成績が救い (つづき)
月謝二円、校友会費三十銭で残りの七十銭で、一か月の学費や衣服費をまかなうのは、大変だったが、入学祝いに海軍軍人から送られた五円で助かった。
その上、予期しなかったことだが卒業するまで成績が全学級で一番か二番で二年生からずっと特待生を続け月謝が免除され、毎月二円七十銭の学費のある中学生になれた。
ただ、家の者にも村の衆にも、常に何かうしろめたさを感じて、自然に目がさがり、異端者のような悲哀がう疼いてならなかった。
一年生の時、天理教の宣教所が突然に県庁で認可になったとて、祖父の家の屋敷を一つつぶして西側の狭い空地に、増築のようにして教会ができた。
二十年近く前に出願したので、その時認可になれば、父も財産をすてないで、すんだろうにと、祖父は不満で、その認可にも増築にも反対して、教会が完成する直前に神経痛で死んだ。
教会といっても、十畳の座敷と同じ広さの板の間の神床のあるだけの粗末なもので、隣家の清ちゃんの父親が、朝晩二回神饌の世話をしていたが、祖父の家に増築した形なので、教会の費用は一切わが家の負担になった。
そのことが、叔父一家に不幸になって
のしかかった。
祖父の死後一年半ばかりして、叔母が四人目の子を流産して死亡したが、同じ頃祖母も栄養不良と過労のため白内障で視力を失った。
その一年ばかり後に、叔父は再婚したが、その叔母は男の連れ子をして、口数の多い気の荒い人だったから、私には針の筵の上で暮らすような朝夕になった。
ただ教会の十畳の片隅に机をおいて勉強もし寝泊まりできて助かったが、毎晩集まって来る漁師のおかみさん達の、たがいに話しあう不平や愚痴や貧乏話を傍聴して人間の憐憫さに静かに勉強もできなかった。
三年の学年試験中にひいた風邪がなおらないで、翌年の体格検査の時、校医か乾性肋膜炎であるから休学して栄養をとれと、注意を受けた。
もちろん医者にかかれないし、栄養をとるなど夢物語で、そのまま通学をつづけた。学校から保証人に同じ注意があったらしく、天理教の偉い先生方が次々に訪ねて来て、私が難病にかかったのは、学問をやめて天理教の青年になって奉仕生活をせよという神の啓示だとしつこく
説いて、直に退学するように責めたて幼時から、風邪でも腹痛でも薬ものまずに神の意思は何かと反省する習慣だったから、乾性肋膜炎についても、私は天理教的発想で原因を独り必死に探究した。従って、先生方の忠告が納得できなくて、そんな神なら信じないと宣言し、死んでもよしと覚悟の上で、一日も休まずに中学校を卒業した。
その四月から沼津町の男子小学校の代用教員をして、七月に東京の第一高等学校の入学試験を受けた。
学科は出来たが、体格検査で――この健康では寮生活が不可能だから、一年静養して来年来るように宣告された。