人物評「芹沢光治良氏のこと」遠藤周作 (初出『日本文学全集月 1964年5月新潮社「こころの風景なつかしき人々 1』1996年10月10日小学館発行 64~68頁 1100円
芹沢光治良氏のこと
五年ほど前の冬のことである。その冬、ぼくは巴里にいた。雨の降っている夕方に(町の名も忘れてしまったが)ある人を訪問して、その人の事務所から出て歩道歩きだした時、一人の中年の仏蘭西人につかまった。
「あなたは、日本人ではないでしょうか」
「そうです」
こちらがそう答えると、人は、おたずねしたいことがあるが宜しいかと言う。
「実は、私はお国の作家、ムッシュー・セリザワの『サムライの後裔」という小説を読んで非常に感動したのだが、他に彼の小説で仏訳か英訳の出ているのを御存知ありませんか?
彼女にそう言われて、私は首をかしげた。芹沢氏の巴里における出版社はロベール・ラフォンだときいている。しかしロベール・ラフォンに問いあわせろとだけ返事するのはこの婦人に薄情な気がした。日本の小説を愛してくれるこの仏人には日本の作家の端くれとして親切にしてあげるべきであろう。私は紙を出し、文芸手帳をめくって芹沢氏の住所を紙に書いた。
「これが作者の住所です。おそらくあなたが手紙を出されたら、必ず返事を下さるでしょう」
その婦人はとても嬉しそうに礼を言って去って行った。私も我がことのように嬉しかった。
「サムライの末裔」は「巴里に死す」の仏訳本の題である。私はこれを戦争中によんだ記憶がある。
芹沢氏の作品に初めて接したのは戦争中、まだ学生の頃だ。新潮社からその頃、昭和名作選集というのが出て、その中には阿部知二氏や芹沢氏の作品がふくまれていた。それから私は氏の作品を少しずつ読みはじめた。そしてその頃は氏は何かきびしい、近よりがたい人のように勝手に想像していたのである。
私がはじめて芹沢氏にお目にかかったのは自分はやっと小説家になり、「三田文学」の先輩の阿部光子さんにつれられて三宿のお宅に伺った時である。学生時代から氏の作品を読みつづけていた私は、実際にみた芹沢氏と、自分が長い間想像していた氏との間に大きな食い違いがあるような気がした。
想像の中では芹沢氏は、非常にきびしい顔だちをされた近よりがたい作家だった。
しかし実際にお目にかかった氏はニコニコと笑われ、女性的なくらい優しい声でゆっくりと話される人だった。
芹沢氏は笑いながら、巴里にいられる令嬢のお話や、一番下のお嬢さまも向うに行きたがって困ります、などと語られていた。このピアノを勉強されている令嬢たちには、後に私も巴里でお目にかかった。
しかし私はすぐ気がついた。私の空想していた氏と実の氏とは食い違いはないこと、このニコニコと笑いながら、優しく話される氏の内側は古武士のような潔癖さと忍耐心と、それからきびしい精神が存在しているのであって、それは後になって、氏からお手紙を頂いた時、はっきりとわかった。その手紙には、肺ガンの疑いがあったので自分は誰にも言わず耐えていたという一行があったからだ。
私は氏と同じように仏国に留学し、その仏で胸部疾患に倒れ、その後、帰国して小説家になったという同じような 過程を経てきたためか、氏の作品仏訳までも眼を通してさせて頂いている。芹沢作品集のあと書きも書かせて頂いた。
しかし同じような過程を経ながら、私には芹沢氏のような強い意志、きびしい克己の精神がとてもない。氏の作品を読むたびにこの強い意志ときびしい克己心に慣れのようなものを感じる。
近頃の芹沢氏はますますお元気のようだ。なども薔薇色でまるで少年のような若々しさを感じさせることがある。今、大河小説にとり組んでいられるそうだが、その完成を待っているのは私たちだけではなく、あの冬の日の歩道で私をつかまえた仏蘭西人のような外国の読書も多いのである。