国語表現の限界
雑誌 月刊文章講座 昭和10(1934)年4月1日 厚生閣発行 定価 15銭 29〜30
日本語を駆使することがわれわれの宿命である限り、國語の約束を無観することはゆるされない。しかしそれは一応、常識的な意味に於てである。具体的に云ふなら、例へば、近頃見かける日本語の文章に「彼女は彼の母親に彼のことを訴へた」式のものがある「彼」の代りに「夫」が「彼の母「親」の代りに「姑」といふ言葉があることを知る程度、またてにをはの誤りから意味を取り違えられるのを避けようとする程度に於てである。それ以上に国語の制約國語の限界、古い秩序をすることは,現代の生活にあっては 、自縛に陥ることに等しい。
今日絵画と云へば、人人の想像には、よ多く洋画が浮び、音楽といへば和樂よりも西洋音楽を考へる。西洋文化の移入がわれわれの日常生活に興へた變化は大部分、もはや附加や擬装を超えて、根本的なものに結合され、常識化され、支配的なものとなっている。文章には情緒的な餘韻の代りに気魄やテンボが要求され、古い格調から来ていたリズムは、洋画や西洋音楽にみる近代的なそれに変わっている。これ等はすべてわれわれの日常生活自体の要求から来ているのであり、その反映なのである。しかも今後ますます生活は複雑になり、 文章はそれを直接的に反映して行かねばならぬ必然的な運命にある。
こんな情勢の中で、われわれは古い国語の制約や秩序に順応して、どこまで表現意欲を充たすことが出来るであらうか。 そこには表現意慾と伝達方法との間に矛盾があるばかりだ。われわれは不便な自縛と矛盾を追って満足してゐるわけには行かない。古い規定や秩序を踏破して、満足の行く方法を索(さぐ)らねばならぬ。それには反逆があるばかりだ。国語の約束が宿命である限り、破壊は混乱を招くだけであるが、反逆によって制約を超えなければならない。そこに創造がある。それがたとひ西から移入されたものに負としても。それをより自由な、より適切な日本語に生かし、表現意欲に添うふるのとなし得たなら、それはもはや立派に創造であり、今日の日本語である。
具礎的な一例だが、本誌でも触れた谷崎潤一郎氏の『文章蘐本』の中に「待望」といふ言葉の今日の時代に活用されている積極的な気持ちには、そんな説明的な、悠長な述べ方では通じない、時代の感情を胚胎しているように考えられる。今日の文章表現は、新感覚派の大胆な文章改革に負うところ甚大であるが、全くそれ以来、われわれは文章からその綴(つづ)り語るところを聞きまた語って聞かせる悠長さを失った。文章表現というものには、もっと端的で直接な生活感情の伝達方法があることを教えられた。それを文章に綴ることを超えて、文字そのもの言葉そのものが直ちに感覚であり、形態であり、時代の呼吸であるところの表現である。そういふ文字が構成してある文章でなければ、もはやわれわれの表現意には適さない。否、現代の生活感情を表現する手段はそれ以外にない。これを所謂従來の文章道に順応した文章と比較してみる時、いかに文章の質が異つているであろう。
勿論、国語の伝統に順応し乍ら、その制約と秩序の中で、今日の生活感情や時代を述べることも不可能ではない。しかしそれは一言を傳へるのに十行を要し、しかもあくまで述べるに止まって決して端的に実感を伝えることには役立たない。今日の文章は,時代と生活との変化に応じて、消極的な順應よりも、常に新らしく積極的な創造を必要とする。そこにだけ、文章の持つレアルがある。