seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢文学読書会 8月便り No175 2025年8月27日: 芹沢光治良文学愛好会

2025年09月02日

芹沢文学読書会 8月便り No175 2025年8月27日

芹沢文学読書会

8月便り

案内通信

No. 175

2025827 ()(令和7年)


猛暑なり 日本全国  汗だくだ


松林庵主人


今年の夏は、日本各地で猛暑の日々が続きました。41.8度という日本最高気温が出ました。 8月末になっても、猛暑が続いています。 まさに地球温暖化のためと思われます。 海水温も北海道まで急高となり、日本全体が温帯から亜熱帯になっているように思われます。雨が全然降らない所と、 線状降水帯の大雨で洪水となっている所があり、大変でした。

世界では、ロシアの独裁者プーチンによるウクライナ侵略が続けられ、アメリカの仲介

で休戦となるか? イスラエルのネタニヤフによるガザ地区攻撃が止まず、支援物資まで阻止して、 多くの餓死者が出ています。 ミャンマーの軍事独裁も続けられています...

今年も芹沢文学読書会を継続して行きます。 『思い出すこと』 の批評を読み上げたので、エッセイを読み語ります。 残暑が続きますが、 お元気に読書会にお出掛け下さい。


175回 芹沢文学読書会

@    日時: 914 () 午前10~12時〔平常は第2日曜日午前です〕

A    会場:大分県立図書館 研修室 No. 5 [平常は研修室 No.5 です ]

B       内容: [I] 芹沢文学に関する話題や情報 10:00~10:10 am

[U] 芹沢文学読書会 10:10~12:00 am 参加者で輪読 自由に話す。

○テキストエッセイ「至福としての「仕事」」 高橋英夫


出典 新潮日本文学アルバム 『芹沢光治良』 新潮社版 1995710日発行 96103

臨時的に、 アルバム 『芹沢光治良』 の中のエッセイ「至福としての「仕事」」 を読み語ります。 高橋英夫(1930-2019) 氏は文芸評論家で、 日本芸術院会員。 ドイツ文学者、翻訳者。 諸賞を受賞している。

*このアルバム 『芹沢光治良』を持参して下さい。 コピーしてもテキストとして用意します(実費負担)

刊本 新潮日本文学アルバム 『芹沢光治良』 1995710日新潮社発行。全111頁、 1300円。

次回は、119(2日曜日) 午前の予定です。

=

◎同封資料:日本語論(女体論) 「國語表現の限界」 芹澤光治良 雑誌月刊文章講座>昭和十 (1934)年四月一日厚生閣発行 定價十五銭 29~30 頁。 拡大コピー ×120 *この雑誌は、 戦前の昭和10年に刊行されていたユニークな雑誌で、文章講座専門のものである。 佐藤春夫が 「古典<巻頭のことば>」を寄せ、千葉亀雄、鶴見祐輔、 尾崎士郎、 大宅壮一、 林芙美子等も寄稿している。 百田宗治著の『新しい詩の解釋とつくり方』 が厚生閣から出版されていることも知られる。

[同封資料提供者 中村輝子〕

芹沢文学・大分友の会



芹沢文学・大分友の会

令和7(2025)827()

ふじ

会報

No.174

編集・文責 小串信正


☆第174回 芹沢文学読書会の報告

於大分県立図書館・研修室 No.5

174回の芹沢文学読書会が、713()に大分県立図書館の研修室 No.1 で行われました。芹沢光治良記念館の戦後80年連動企画展のチラシを渡して、 『一つの世界一又はサムライの末裔』の長編小説について説明しました。この長編小説は、 『サムライの末裔』 として仏訳されました

が、広島原爆の惨状をリアルに描いた原爆文学として、もっと評価されるべき作品だと思います。

今回のテキストも、『こころの広場 思い出すこと』 の二評論で、 @ 「十五 役所時代のこと」と「十六 著作集の読者へ」を読み語りました。 これで 「思い出すこと」 を読み上げ、『芹沢光治良文学館 12』も完読しました。 次回からは、他の長編小説 『結婚』 を読みたいと思いますが、繋ぎとして、芹沢文学に関するエッセイを読み語ることにします。読書会へお出掛け下さい。


☆ 会計決算と今年度の年会費の納入について

9月から新年度になりますが、 前年度の会計決算が出来ていませんので、次号で会計報告を載せますので、10月以後に新年度の年会費を納入して下さい。 よろしくお願いいたします。


【芹沢文学案内 No.118】 ペール(仏語の父) 石丸助三郎

芹沢光治良にとって、大きな出会いであり、 芹沢文学に於いても重要な人物は、 幼少期に会って 「養子にしたい」と言った石丸助三郎です。

芹沢光治良は、 駿東郡楊原村(現沼津市) 我入道の網元芹沢家に父常藏 (常晴)母はるの次男光治良 (みつじろう)として生まれました。 両親は天理教の熱心な信者となり、多くの人々を助け、 家を布教所にしようとしたが、 許可が出ず、全財産を教団に捧げ、 布教師として家を出ました。 長男と三男を連れて行きましたが、祖母に懐いていた次男の光治良は祖父母の家に残しました。 しかし、4歳の幼児は両親に捨てられたと傷つきました。 貧困の生活で、 7歳頃に石丸家の別荘が上香貫にあり、叔母が管理していて、 魚を届けた時に石丸氏に出会いました。 光治良は石丸氏に気に入られ養子になるように言われますが、 その話は進みませんでした。 一高生の時に再会し、 麻布の家に来るように求められますが、遠慮して訪ねませんでした。 大学生になり、 外務省の翻訳等で自活出来るようになって、 石丸邸の離れに下宿させて貰いました。 この人こそ「求め続けた父である」 と自覚して、「ペール」 と呼んで親交しました。 既に養子がいたので、 石丸家の養子にはなりませんでしたが、 生涯にわたり肉親以上の交流を続けました・・・・・・。

石丸助三郎は、佐賀藩(佐賀県)の出身で、東大を卒業して日本郵船の社員となり、ロンドン支店長をしました。 退職後は、個人経営の海運業をし、一高の校友会雑誌に書いた「失恋者の手紙」を読んでくれていて、 寄寓するようになった最初の誕生日に、ロマン・ローランの『ジャン・クリストーフ』 を贈ってくれ、 シェークスピア全集や色々の文学書も貰いました。 しかし、恋人安生鞠との結婚を許してもらうために、 高文に合格し農商務省の官吏になりましたが、関東大震災もあって失恋しました。官吏を辞めてパリのソルボンヌ大学に留学する時には、藍川氏の娘金江と結婚して一緒に留学することを勧められ、経済的にも援助してもらいます。 バリで結核になり、作家になることを決めて帰国した時も理解し応援してくれました。 改造の懸賞小説に当選して、作家活動を始めた時も、評価してくれました。 石丸氏が昭和1210月に胃癌で死去した時は、厚く葬りました。 大河小説『人間の運命』には、田部氏として登場させています。

posted by セリブン at 17:07| Comment(0) | 芹沢文学読書会 大分
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