案内通信
No. 162
2023年6月24日 (土)
(和5年)
芹沢文学読書会
6月便り
梅雨の季節となり、その晴れ間には暑い日々が続いています。お元気にお過ごしのことと思います。新型コロナウイルスの感染は収束していませんが、日本は5類として責任放棄しています。インフルエンザも流行っています。各自で養生して下さい。
ロシアの独裁者プーチンによる隣国ウクライナへの侵略戦争が続いて、両軍の犠牲者が多く出ています。世界各国からの支援や NATO からの武器の提供で、ウクライナ軍の反攻が始まっています。ロシア軍は苦戦して、ダムまでを破壊しました......。
芹沢文学読書会を継続していきます。芹沢光治良先生没後30年になりました。改めて、
芹沢文学を愛読して行きましょう。読書会は、随想集『文学者の運命』の随想を二つずつ
読み語っています。暑い日々ですが、養生をして、お元気に読書会にお出掛け下さい。
御無沙汰の方も、どうぞ気楽に御参加下さい。新入会者も歓迎します。
第162芹沢文学読書会
@日時; 7 月 9日 (日) 午前10時~12時[*通常は第2日曜日午前です]
A会場;大分県立図書館研修室 No. 5 [*通常は研修室 No.5 です]
B内容: [I]芹沢文学に関する話題や情報 10:00~10:10 am 自由に話す。
[U]芹沢文学読書会 10:10~11:40
11:45~12:00 am 輪読♪
○テキスト@「作家は書けなければ死に等しい」随想A「風になやんだ日々」
*随想@は、戦時中に文芸家協会や日本ペンクラブが解散し、上海や軍艦に乗るように依頼されたが結核で^_^免除された。荒木君から書斎の整理を助言された・・・・・・。随想Aには、三木清の来訪、東京空襲、沓掛の
山荘に疎開、野菜作り、穴掘り仕事の強制、清書やキリスト伝の読書。風に悩まされたりして戦争に耐えた。i
初出『ノーベル賞文学全集』(主婦の友社発行) の月報。@昭和47年6月、月報 21 A昭和47年7月、月22
初刊本/ 『文学者の運命』昭和 48 (1973)年6月10日主婦の友社発行。全244頁、 680円。
再録/ 『芹沢光治良文学館12』平成9(1997)年8月10日新潮社発行に再録。 94~102頁。
=次回は、9月10日 (第2日曜日) 午前の予定です。
◎同封資料; 随筆「旅に想う」芹沢光治良雑誌くそれいゆ > 秋の号昭和35(1960) 年8月15日ひまわり社発行。随筆「秋」 130~131頁。拡大×1.30 *敗戦後15年たって、日本でも旅行が流行している。戦後にヨーロッパを旅行して、外国の若者達は夏休みに外国旅行をすることから、多くのことを学んでいると知る。日本は海で隔てられていて外国旅行出来ないことを心配している。
[資料提供/中村輝子]
令和5(2023)年6月24日 (土)
編集・文責小串
芹沢文学大分友の会
No.161
会報
ふじ
☆第161回芹沢文学読書会の報告於大分県立図書館・研修室No.5
5月14日(日)に大分県立図書館の研修室No.5 で、第161回の芹沢文学読書会が行われまし
た。参加者は少数でしたが、熱心に芹沢文学の読書会が行われました。
今回のテキストも、『文学者の運命』の二随想で、「小説とはやくざの業か」「闘病生活を
「すてた日」を読み語りました。『芹沢光治良文学館 12』 (平成9年8月10日新潮社発行) の 85~93頁
「小説とはやくざの業か」では、渡仏して、ルクリュー家と親しんで、多くの作家や芸術家と交流しました。
「私はデュルケイム学派の経済学を勉強したので、マルキストでもなく、共産革命に加担できない」とて「創作が聖業であると信じ」て詩のような短編小説を書いていましたが、中国戦線を取材しようと決意します。「闘病生活をすてた日」では、訪ねた北京ではジャックには会えなかった。取材して長編小説『愛と死の書』が書けそうに思われた。しかし、太平洋戦争に始まると、中野署に呼び出されましたが、百武源吾海軍提督との交流を語り、解放されました。戦争中には創作は出来ませんでした・・・・・。
次回も、『文学者の運命』の二随筆を読み語ります。どうぞ、御参加下さい。
○令和4(2022)年度の年会費が未納の方は納入下さい (振替や持参で)。
新年度になりました。年会費未納の方は納入をお願いいたします。篤志者の寄付により今年度の年会費を1200円に止めています。読書会に持参するか、同封の郵便振替の払込取扱票にて納入して下さい。寄附も受入れますが、無理をされないように。芹沢文学研究会の会員の方で、芹沢文学大分友の会にも入会いただいている方々にも会員の継続をお願いいたします。 *どうしても退会されます方は、ハガキ等にて御一報下さい。
【芹沢文学案内 No.106】武人百武源吾大将と文人芹沢光治良
芹沢光治良夫妻は、大正14年の秋に結婚して、一緒にフランスのパリに遊学しました。石丸助三郎氏の紹介があったものと思いますが、百武源吾大佐(少将)と出会い、義兄弟の契りを結びました。武人と文人との生涯にわたる交流が始まったのです。その交流は、大河小説『人間の運命』の黒井閣下として登場させて創作しているのです。石井稔著『異色の提督百武源吾』に寄せた芹沢先生の「序」には、「百武閣下のことを思うと、いつも人間の出会いについて、運命ということを考えることになる。」と書き始めています。月報「風になやんだ日々」に、昭和19年秋の夜に百武提督が来訪し、書棚の洋書を書庫に入れ、アランとロランの胸像は庭に埋めるように注意されました。疎開も勧められ、「生きのびる努力をせよ」と忠告されたことを書いています。百武源吾氏は、明治15 (1882)年1月28日に佐賀県の本荘村に父百武庭藏と母茂の五男として生まれました。父は士族 (足軽) でしたが、十人の子を苦労して育てました。海軍兵学校を主席で卒
業して、厳島• 三笠に乗組み少尉として日露戦争に出撃。明治44年に海軍大学校に入学し、大正4年に米国駐在。語学や米国海戦史を学び、各地を旅行見聞し、「日米闘うべからず」と実感しました。同6年に中佐で海軍大学校教官。多摩・春日艦長。同13年に海軍軍令部出仕、パリへ出張し芹沢光治良氏に出会うのです。ロンドン条約の条約派として敗退。舞鶴・佐世保横須賀港の司令長官(中将)となるも、大将として太平洋戦争に反対し予備役へ。昭和20年に求められて九州帝国大学総長。敗戦後は静岡県の都田に隠棲し農牧生活。昭和51(1976)年1月15日に (94歳)。