芹沢文学・大分友の会
案内通信
No. 163
2023年8月27日 (日)
(令和5年)
8月便り
梅雨や二つの台風で各地に被害や死者があり、その後には異常な程の猛暑が続いています。熱中症には御注意を。
ロシアの独裁者プーチンによる隣国ウクライナへの侵略戦争が一年半も続いています。ウクライナ軍の犠牲者は7万人にもなっているとのとのこと。おそらくロシア軍の犠牲者は、その2倍にもなっているものと思われます。こんな戦
争は早く終わらせるべきです。しかし、停戦も中々難しそうです・・・・。
芹沢文学読書会を継続して行きます。今年は、芹沢光治良先生没後30年ですが、芹沢文学を愛読して行きましょう。読書会は、随想集『文学者の運命』の随想を二つずつ読み
語っています。読書の秋となりますが、お元気に読書会にお出掛け下さい。
第163回 芹沢文学読書会
@日時: 9 月 10 日 (日) 午前10時~12時[*通常は第2日曜日午前です]
A会場: 大分県立図書館研修室 No. 5 [*通常は研修室 No.5 です]
B内容:
〔T〕芹沢文学に関する話題や情報 10:00~10:10 am
[U]芹沢文学読書会 10:10~11:40 11:45~12:00 am 輪読
○テキスト随想@「川端さんの死について」随想A「住き晩年を」
*随想@は、日本文化研究国際会議の直前に急死した川端康成さんのことを書いている。ガス自殺と報道されたが、直前の状況から、事故死であると確信して語った・・・。随想Aには、この月報の最後としてエクリバンとして創作して来たことを回想し、パリでの滞在中に、「生き晩年を」自覚している・・・・・。
初出『ノーベル賞文学全集』(主婦の友社発行) の月報。@昭和47年8月、月報 23 A昭和47年9月、月報 24
初刊本 / 『文学者の運命』昭和48 (1973)年6月10日主婦の友社発行。全244頁、 680円。
再録/ 『芹沢光治良文学館12』平成9(1997)年8月10日新潮社発行に再録。 102~110頁。
=次回は、 11月12日 (第2日曜日) 午前の予定です。
◎同封資料; 随筆「創作は祭壇にのぼることである」芹沢光治良雑誌〈渋谷文學〉 6月號昭
和14 (1939)年6月5日渋谷文學會発行。 4~5頁。 *戦中の昭和14年6月の発行で、渋谷文學會は國學院大學内あったようです。求められて創作態度について書いた随筆です。祭壇に登るとは宗教的ですが、能の舞台に立つことに喩えているのは面白いですね。芹沢先生は、天理教とキリスト教に育てられた作家ですが、この創作態度は生涯にわたって変わらないものでした。当時、初期長編三部作を創作していて、第三作の『愛情の蔭』 (改造社発行) が最新刊として雑誌の裏表紙に紹介されています。[資料提供/中村輝子]
芹沢文学・大分友の会
会報 No.162
令和5(2023)年8月27日(日)
編集・文責小串
ふじ
☆第162回芹沢文学読書会の報告於大分県立図書館研修室No.5
第162回の芹沢文学読書会が、7月9日(日)に大分県立図書館の研修室No.5 で行われました。
常連の参加者で少数でしたが、熱心に芹沢文学の読書会が行われました。芹沢文学館の頃の会
報[「芹沢井上文学館会報 No.152]を参考資料として参加者に渡しました。沼津市芹沢光治良念館からお送りいただいた企画展や講演会のチラシもお渡ししました。
今回のテキストも、『文学者の運命』の二随想で、「小説家は書けなければ死に等しい」「風になやんだ日々」を読み語りました。『芹沢光治良文学館12』 (平成9年8月10日新潮社発行) の 92~106頁を輪読しました。「小説家は書けなければ死に等しい」には、戦中の回想として、陸軍から上海への慰問に行くように言われたが、診断書を持参して辞退しました。海軍からも依頼されたが、結核のことから許されました。作品を書けないのは死にも等しいと考えます。「風になやんだ日々」には、哲学者の三木清や海軍の提督が来て蔵書や疎開を勧められ、空襲で屋敷が焼失し、高原の山荘に疎開した苦労が書かれています。風退治で苦しめられたりのです。
次回も、『文学者の運命』の二随筆を読み語ります。どうぞ、御参加下さい。
○令和4 (2022)年度の年会費が未納の方は納入下さい (振替や持参で)。
新年度になりました。年会費未納の方は納入をお願いいたします。篤志者の寄付に
より今年度の年会費を1200円に止めています。読書会に持参するか、同封の郵便振替の
払込取扱票にて納入して下さい。寄附も受入れますが、無理をされないように。
どうしても退会されます方は、ハガキ等にて御一報下さい。
【芹沢文学案内 No.107】
芹沢光治良と哲学者三木清
芹沢光治良は、戸籍から、現在では明治29年生まれになっていますが、これも一つの謎と言えます。生前の昭和 45 (1882) 年 12月に、日本芸術院の会員に選ばれた頃から、戸籍に明治29年5月4日に生まれたことになっているので、明治30年生まれで通して来たのを変更したのです。それまでの年譜は、殆どが明治30年生まれだったのです。幼少に、祖父が役所に届ける時に、1年早く生まれたことにしたとか。また酉年生まれであると言われて来たのです。正式の書三木清の写真類を出す時には、明治29年生まれと書いて出してはいました......。しかし、川端康成が明治32年生まれで、一高の時には、中学卒業後に1年浪人して小学校教師や家庭教師をして学資を貯め
たので、川端は1年後輩であり、三木清は明治30年生まれで同級生のはずが、 1年先輩であったことから、やはり芹沢光治良は、明治30年生まれであるのが正しいのです。
三木清は、明治30年1月5日に兵庫県龍野市[たつの市]に生まれ、一高に進学し、京都帝国大学哲学科で西田幾多郎に師事します。大正11年にドイツに留学し、同13年にパリに移住して、芹沢光治良に出会い交流します。ポートレートを贈り、帰国費用を借金します。借用書まで書き残したのに、帰国後に返金してもらえませんでした。懸賞小説当選には祝いの便りをもらいます。
三木清は法政大学教授になり、多くの著作を書きました。マルクスの研究をし、日本共産党に資金を提供して逮捕され、転向します。昭和研究会に参加して「東亜の統一」を説いたりします。
治安維持法で再逮捕され、獄中で昭和20年9月26日、悲惨に死去。 48歳。著書『パスカルに於はける人間の研究』『哲学ノート』『人生論ノート』等。没後に『三木清著作集』が出版された。