私の憲法観
芹沢光治良
憲法の条文が公に問題になる時は、国家に、
不幸な暗雲がおそいかかる前兆のような気が
してならない。明治憲法の場合がそうだった。明治憲法の場合、たしか一条と五条の、天皇と天皇大権とに関する条文が、公に問題になった。時に、権力を持つ軍が戦争に便宜に、条文の解釈を歪めようとやっきになったことは、まだ記憶に新しいことだ。
私は大正九年に東大で憲法の講義をきいた。東大の憲法の講義はミノベ教授とウエスギ教授が受持っていた。ミノベ教授は天皇機関説にたった講義であったが、ウエスギ教授は天皇中心説(?)にたった講義であった。学生は二人のうち何れの講義を選んでも自由であったが、ミノベ教授の教室の方がいつも満員であった。ミノベ教授は頭脳が明哲で、風貌からして冷厳で、講義は無味乾燥で、試験は難しくて有名であったが、ウエスギ教授はその反対に、風貌は立派で役者のように美男で、いつも和服で、講義も面白く試験はやさしく、優をとることも易しかったが、そして優の数によって就職が左右されたのに拘わらず、みなミノベ教授の講義を選んだ。それはミノベ教授の講義こそ、ほんとうの憲法の講義であって、ウエスギ教授のそれは「講談」だと思われたからだった。
しかし、あの当時は大学でどんな風に憲法が講義されようとも、学内のことで、公には問題にしなかった。世人は憲法の存在さえ知らないで暮していられたからだ。そんな時代は国民が幸いな時である。憲法は国家という生きた組織体の中枢のようなものであろうが、健康な時に私達が頭脳や心臓などの存在を忘れて生きていられるように、国家が健康な時には、憲法も忘れていられる。ところが、権力者が国民の福祉や国家の将来を考えないで、権力をほしいままにしようとする時、国家も病むようになって、憲法の存在が気になり、その条文を変えたくなるものだ。
太平洋戦争のあとさきはその悲しい体験で
あったが、あの時は明治憲法が欽定憲法だったから、改正などということは畏れ多くて言えなかったから、条文の解釈を権力者の都合のいいものにしようとあせった。天皇は創造主のような神に祭りあげられ、ばかげたことには、病気にあわてる未開人が神だのみするように、東大
で講義をするのに、カケイ教授のように相手をうって、国体メイチョウなどと呪文のような文句を説える者まで現れる始末だったが、そうしたことは、今更述べるまでもなく、誰でも知っている。
今日平和憲法の改正が問題になっているが、やはり国家という生きた組織体が健康をうしないかけているようで、心配でならない。
国民の福祉と国家の将来を考えない権力者
は、今度は欽定憲法でないから、改正をおおっぴらに言える。それどころか、平和憲法は占領軍から押しつけられた憲法であるからとまで言って、国民の独立感情にうったえかけて改正の方へ国民の心をむけることもできる。私達国民は平和憲法が占領軍からおしつけられたかどうか知らない。ただ太平洋戦争をはじめる前から敗戦にいたるまでの間に国民は苦悩のなかに、さまざまな疑問をもって、政府や軍を観ることを知った。敗戦後憲法改正についてきかされた時、国民はみな明治憲法は改正
しなければならないと、不幸と苦悩のなかに絶叫するような気持だった。あの頃、農村や山村や漁村にも文化運動と呼ぶものが流行して、健康にめぐまれないで出無精な私なども、やむなく地方に引張り出されたが、どんな題で話しても、講演の後や座談会には、きまって天皇制について詰問されるように意見を問われたものだ。長い不幸な戦争で、国民の思想がどんな風に、変ったか、はっきり知らされた。そして、平和憲法が発布せられた時、国民はみな喜んだものだ。
国民にとっては、憲法が占領軍から押しつけれたかどうかは問題ではなかった。平和憲法が苦悩のなかに待ちのぞんだようなものだっことを、喜んだのだ。憲法を読まない者でも、平和憲法によってはじめて国民が解放せられ、人権が尊重せられ、戦争が放棄せられたことだけは知って、喜んだものだ。憲法が発布せられた頃、PTAの会合などで、おかみさん達が、こんな憲法ができてこそ、戦争中に苦しみ甲斐があったと話しあっていたことを、私は忘れられない。息子を戦死させた親達が、これで子供も犬死ではなかった。仏も浮ばれるといいあったことも、覚えている。農村や漁村の中学生や高校生が、胸を張って、平和の戦士になるのだという希望に、顔を輝かせていたことも知っている。そして、あれから、その憲法のもとに、国民は爪先上りの路を努力して生きて来た。
明治憲法が発布せられた時も、その憲法が国民によって制定せられなかったのに拘わらず、国民は同様に喜んで迎えて、それに従った。日本国民は自分の手で憲法を制定した体験がないから、平和憲法の場合、自分達の選出した代表者が選択した憲法を、自国の憲法として疑わないのだ。今更アメリカから押しつけられた憲法だなどと、寝言のようなことを言われても、当惑するばかりだ。特に、その憲法が国民のためには、明治憲法よりもはるかにまもるに値する理想的なものであるからー
平和憲法を読んだことのない者は、精読してみるといい。これ以上に立派な憲法は考えられないときっと納得できる。立派すぎて、政治家はその努力の足りないことをはずかしく思うだろう。
さて、平和憲法の改正について問題になるのは、再軍備とのかんれんで、先ず第九条があげられている。改正論者は軍隊戸締論はじめ、独立国家に軍備の必要な所以をるる説いているようだ。そして、永世中立国であるスイスでも、強大な軍隊を持って独立をまもっていることを説いて、国民の心を動かそうとしている。戦争放棄した日本の憲法があまりに理想的で、現実にあわないと説くが、日本の政治家は、このすばらしい憲法の理想を国外に向って宣揚して、その理想のために何故闘わないのであろうか。何故その努力をしないのであろうか。その努力をすることによって、戸締の心配もなくなるだろうに、残念なことである。
スイスに強力な軍隊があるように説くが、スイスの軍隊は日本の政治家のいう軍隊とはちがうようだ。スイスは日本人の想像を絶した福祉国家になっている。健康で、失業者もなく、労働争議もなく、監獄に囚人はいなくて、新聞に三面記事のないような幸福な国だ。貧富の差がなくて、都会も田園も、その風景のように清潔で衛生的で、デカダンスが巣喰う余地のなほど国を挙げて健康な生活をしている。誇張して言えば、この世の天国であろう。こんな国であったら、国民は侵そうとするものがある場合、老若男女を問わずに、身を挺しても国をまもろうとする。女学生もホテルのボーイも足をならすのだといって、休暇には登山するが、日曜日にはまた、登山電車などに子供づれの兵隊がいっぱいである。しかし、この兵隊を見て日本流の兵隊と思ってはいけない、軍服を着た市民で、
女学生やホテルのボーイと同様に足をならし
に出掛けたのにすぎない。
日本の政治家は、日本を憲法のうたっているような幸福な福祉国家にするように努力したらば、軍備に苦労しなくても、国民は国を守って安全であろうに、本末転倒している。それにしても、ローザンヌの世界ペン大会の際、レマン湖畔のシノン城で最後の晩餐会に、スイスの文部大臣のした祝辞を思い出す。
ー今や世界に暗い戦雲がたなびいているが、第三次世界大戦が起きれば、スイスも中立をまもれなかろうが、その時には原子爆弾によってこの古城も吹きとばされてしまうだろう。それ故、世界の文学者の胸にこの歴史的古城を印しておきたくて、不便をしのんで、初めて古城で晩餐会を開いた。しかし、世界が真剣に平和を希求すれば、必ず戦争はさけられる筈である。その証拠には、スイスを見て欲しい。スイスは三つの国語を持ち、利害の反する三つの民族から成っているが、平和な国家をつくっている。しかし、そのためにスイスは十字架を国旗にして、三つの民族が共同の利益のために十字架を甘受しているのである。世界各国が世界平和のために十字架を背負う心になりさえすれば、全世界がスイスと同様に人類の福祉と平和を得られるだろうことを、皆さんがお国に帰られて、お国の政治家と国民に伝えて説得せられ
んことを・・・
平和憲法はその十字架を世界に率先して負うことを宣揚したようなものでなかったか。
「世界」第104号 1954(昭和29)年8月
今読んでみると、この考え方が憲法と言うものをどストライクでとらえています。そして、今の時代に当てはまり、
説得力があります。