『令和5年紙上3分間スピーチ』
来年(令和5年)も新年会が中止
要領
となったことで、『令和5年版、紙上
3分間スピーチ』 を作成します。
『記入要領』は次の通りです。 よろ
しくお願いいたします。
記入要領
: 記入用紙は同封のハガキを使
用。 二枚同封で一枚は予備用
(個人でお持ちの白紙のハガ
キにパソコンで印字も可)
2 :ハガキに記入する筆記具。
@ 鉛筆は不可(印刷機が読み取
れないため)
A 黒のボールペン、黒のサイン
ペン、黒インク使用
3 文章はハガキ一枚片面で。
3 締切・令和4年12月20日(火)
4 発行日・令和 5
月25日
送付予定
5 ハガキの送付先、連絡先
安井正二宛
『自伝抄』
芹沢先生が 80 歳の時、 読売新聞に連載さ
れた 『自伝抄』をご紹介します。
新聞記事をコピーしましたが、 45年も前の
新聞とあって、活字は小さく、新聞紙は色あ
せて読みにくい仕上がりになってしまいま
した。
そこで、パソコンで書き写しました。 内容
は先生が過ぎし日を思い出され、 32歳まで
の日々を、語りかけるように書かれたもので
す。 楽しみにご期待ください。
昭和52年(1977年) 1月5日
第1回
三つの時、両親が蒸発
今年の元旦には、孫娘の一人が五年ぶりにパリから帰ったとて、訪ねて来た。 去年パリの音楽院を卒業するなり、パリのプリ・オケ(オーケストラ・コンセルバトアル)の団員に
なったので、ようやく年末休暇で日本に帰れたというのに、三日にはもうあわただしくパリへ発ったのだが
「おじいさまは還暦二年の八月ですって? 八十歳ではなかったの」と、訝しげに私の赤いチョッキに目をおいて、「お弱かったから、もうお目にかかれないかと思ってたのに、お元気で・・・・・・お目出度う」と、挨拶した。
それ故、やむなく孫に話したのだった。去年の四月中旬定期診断を受けた医者から、持病の喘息もようやく完治して、これで病弱だった一生が終わったから、今度の誕生日には本卦帰りのつもりで赤いチョッキを着て、生まれかわって人生を再出発する還暦の祝いをするように言われた、と。
医者からそう喜ばされた翌々日、芹沢文学館の創立者岡野さんの秘書から電話で、頭取が赤いチョッキを贈りたいが受けてくれるかときかれたが、医者と頭取とは連絡があるは
ずはなく、私の喜びの波動が頭取に伝わったものと喜び、若い岡野さんの長い友情に感謝して、故郷の芹沢文学館でいただくと答えたことも話した。そして、当日(五月上旬)文学
館に出向くと、文学館前の松林に大きなテントが張られて、私の長寿を祝う会だといって、沼津市民や旧友が集まっているの仰天したことや、赤のチョッキをもらいに行ったのに立派な赤の上衣とグレーのズボンに赤のベレーをその日に間にあうようにとパリのモッシュ・エフィス商店から飛行便でとりよせてあるばかりでなく、皆私が数えで八十歳
を迎えるという祝辞を述べるので、私はただ当惑して、あくまで還暦を迎える挨拶と謝辞をのべたことを話して、
「歳月は不思議なものでね、個人によって速度がちがうものらしく、生まれた年から数えれば八十年かも知らんが、知能も体力も還暦の六十一歳だと、去年名医が保護してくれ
たから、僕は還暦二年、六十二歳だよ。今年も大いに勉強しようと、一年の計を樹てているのだよ。特に、去年、還暦の祝いに故郷の村のお偉方も出席していて・・・多年の「村
八分」を解除しようと、考えたのだろうね。それから十日後、むらを挙げて公会堂に集まり、僕が講演することで、村八分の解除の手打ちができたのだからね、七十何年ぶりか
で・・・・・
その点でも、僕はすがすがしくなって、
新しい気持ちになり切らなければならないよ」と、加えた。
「村八分って、一体なんのこと?」
「村の不文律のおきてを破って、中学生になったからと言って、誰も挨拶してくれなくってね、僕を仲間外れにしたのさ。ずっと村の人の扱いをしてくれなかった。文学館が松
原にできてからも、村にはこだわりがあったようだものな」
「わたくし、おじいさまのこと、何も知らなかったわ。 おじいさまに中学生の頃があったなんて。ね、昔のこと聞かせてー」
「そうだな、僕がパリで勉強した頃は、パリの新年はやり切れないほど淋しくて・・・チョコレートを持って知りあいの老人を訪ねると、必ず過去のことを話してくれたが、そう
いう伝統だったよ。・・・・・・そうだ、お
前は僕が三つの頃に両親にすてられたことも、知らないのだったな」
三歳の時に両親にすてられれば、人間は捨犬のような本能的な感覚を持つようになる。その上貧困であれば、雑草のように強靭でなければ生きられない。そのことがわが一生に
どう影響したか、孫娘にどう話すべきかを迷ったが-
つづく
