平素より大変お世話になっております。
昨日より当館1階展示室では新規の企画展「光治良と沼中・東高」(第1回)を開催しております。
その企画展に関連し、本日付『沼津朝日新聞』にて、当館助言者の鈴木吉維先生によるコラムの掲載がありました。
つきましては、ご参考までに別添のとおりその写しを送付申し上げますのでご覧ください。
なお、文中で触れられている書簡資料については、原本及び翻刻文全体を展示しておりますので、ぜひご来館のうえご覧ください。
今後とも変わらぬご支援とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
2020年7月16日
沼津市芹沢光治良記念館
055-932-0255
沼中時代の芹沢光治良
鈴木吉維
我入道の芹沢光治良記念館で『沼中・東高』展が始まった。
芹沢は大変な秀才で、明治四十三年四月、三番の成績で沼津中学校に合格し、二年生の時も平均点九十三点で二番という成績を修めている。在学中は学力優等者で特待生を続け、級長・副級長にも選ばれた。
後年、中学時代のことを振り返って
「先生方が教育に熱心なあまり生徒の不勉強を許さず、どしどし落第をさせた。私の学年は百余名入学したが、卒業した同級生は六十名足らずだった。」(「沼中時代の私」昭和51年)
と述べている。そんな学校生活のなかで上位の成績を維持するのには、大変な努力を要した
はずである。
家庭的に恵まれなかった芹沢を支えたのは、美校(現東京芸術大学)を出たばかりの図画教師前田手寸(ゆきちか)であった。先生の自宅を訪ねては雑誌『白樺』や『ホトトギス』、そして多くの画集に触れることで、後年フランスへ留学する素地が作られた。
今回の企画展には、沼津中学四年生の時に前田に宛てた候文(そうろうぶん)の手紙が展示されている。立派な文章と筆跡であり、当時の
沼中生のレベルの高さを示している。
不思議なことに、その手紙の末尾の署名が『芹沢光次良』となっている。芹沢の本名は「光治良(みつじろう)」であるが、沼津中学校の『学友会報』には、「光次郎」「光二良」
などの誤記が多く見られる。しかし自分の署名を間違えるはずはないので、これ
をどう解釈すべきか考えてみた。
芹沢は文芸部に属し、一年生の時から『学友会報』に「夜の帰り道」という作文を掲載し、五年生の「卒業間際に」という作文では、卒業後の進路を文科にすべきか法科にするか
で迷っていると記している。自伝的大河小説『人間の運合』でも、中学時代に回覧誌を作っていたことが語られている。
これらのことから考えると、ペンネームのつもりで「光次良」と署名したのではな
いかという想像が成り立つ。夏休みを横須賀の叔父のもとでのびのびと過ごし、その開放感から年齢の近い青年教師に文学者を気取った手紙を書いたのかもしれない。
そう考えると、中学生らしい茶目つ気とも思えるが、その師弟関係が生涯に亘って続いたことを考え合わせると、つくづく若い時の出会いは大切であると思えてくるのである。
(芹沢記念館助言者、東京都町田市)
沼津朝日 令和2(2020)年7月16日 より
ぜひ、ご入会してください。
メールお待ちしています。
mori-zirou@serizawabungakuaikoukai.jp
>sumikoさん
>
>芹沢先生の神シリーズ読ませて頂きました。天命庵に参拝させて頂きました。今、立ち止まっています。入会したいと思います。よろしくお願い致します。