seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢文学愛読者短信 第218号 : 芹沢光治良文学愛好会

2019年09月19日

芹沢文学愛読者短信 第218号 


2019年9月10日
芹沢文学愛読者の会

 芹沢文学の二つの短編
『死者との対話』『春のソナタ』の作品は、珠玉の短編と言はれ
てます。
 この二作品は東大生で学徒出陣し、人間魚雷『回天』の訓練中
に事故死された、和田稔氏がテーマになっています。
 若き日に、土居良太郎氏は和田稔氏と一緒に芹沢先生宅を訪ね
ました。そのときの思い出や、和田氏のお人柄などを、『芹沢・
井上文学館友の会会報』に書かれました、ご紹介します。

和田君のこと
   土居良太郎(元市立沼津高校長)
 「色白でやせ型の気立てのやさしい青年だった。人の話を聞
くときには、よく小首をかしげてはにかみながら眼をしばたいた。
 しかし、柔和な外見にかかかわらず、シンは人一倍強いという印象を受けた・・・
上山春平氏の『和田稔』評である。
 上山氏は旧上官、後の京大教授。これは、そのまま、沼中、一高時代の彼の姿とかさなる。
その通りなのだ。
 一高生数人で沼津の大先輩芹沢光治良先生をお訪ねした
ことがある。その中に和田君も私もいた。昭和十六年秋、東中野。
管制下の暗い電灯の下で先生の静かなお話が続く。人生、文学、哲学:息詰まるような
時間の中で、私たちは何かを摸索していたのである。
 時局は日毎に切迫していった。ついに学徒出陣という異常
事態がやって来る。入隊二ヶ月前の彼の手記を見よう。これは妹さん宛のものだ。
 
「若菜、私は今、私の青春の望んだ花はついに地上に開くことはなかった。
とはいえ、私は私の根底からの叫喚によって、さすことが出来るだろう。    
 私の柩の前に唱えられるものは私の青春の挽歌ではなく、私の青春の頌歌であってほしい。            
 これは、いかにも青年らしいロマンの香り高い文章である。彼は二十一歳。目分の青春、および未夾を百家刀要請のために、 
断念しなければならなかった青年の苦悩がにじみ出ている。
彼はヴァイオリンをたしなむ心やさしい青年だった。その彼が、
わずか一年ばかりの間に精神も肉体も技術も回天特攻隊随一の人になったという。その秘密はいったい何だったのだろう。   
国家非常の時には誰もがそうなり得るのだろうか
彼が九州男児の血を引いていたからだろうか。それとも彼のひたむきな純粋の生き方のためなのだろうか私には判らない。
 彼が光基地で特攻訓練に明け暮れていた頃、私は高師原で対戦車肉薄攻撃の訓練に忙殺されていた。
 彼の手記『わだつみのこえ消えることなく』(角川文庫)を私はくりかえし読んだ。彼の苦悩と純粋さに心打たれた。
そして、失われたものがあまりにも大きすぎたのに心痛むのである。戦争の空しさを思うのである。
 昭和27年7月27日
 回転特攻隊委員海軍少尉
 和田 稔 殉職
 そして、また、8月15日がやって来る。非戦の誓いを新たにする日である。
 (芹沢・井上文学館友の会会報 1989・12・1 から)
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沼津市芹沢光治良記念館 企画展
『光治良と川端康成展』
         に参加して
      沢田昭人(愛知県豊田市)
 展示会を巡回する前に、記念館の職員の方に「光治良と川端は一高、東大と通いながら、
顔見知り程度で交流が始まっだのは、作家としての活動をしてからだ」と聞いた。
 展示物を見ながら両者の書簡のやりとりとか、ペンクラブでの活躍、さまざまな
企画を立て実行していく様などをのんびり見て過ごした。
 意外に思ったのは、光治良は中学時代数学が得意で、高等学校は理系志望だったことだ。
 しかし、教師は法科へ進むことを勧めた。本人は仏文科へ進学した。この時期から文学を
めざすつもりだったように思う。
 大学は経済学部へ進み、役人の生活を経て、結婚と同時にフランスへ留学、肺結核闘病の末帰国。改造社の懸賞小説
で一等賞となり作家としてデビューをはかる。
 その小説『ブルジョア』に対して、文芸
評論に厳しい川端が、その作風を評して日本には珍しい型の小説家であるとしている。
 これは光治良にとって正当に自分の才能を評価されて、喜んだのではないかと思う。
自分の文才に対して、多少とも懐疑的だった彼には、まさに魚が水を得たように思う。
 後に川端が日本ペンクラブ会長に就任し、光治良が後に副会長となり彼を支え、
川端が解任した後、光治良が会長を引き継ぐことになる。
なぜかこの二人は太い運命の絆で結ばれていたと思う。
 光治良に大きな影響を与えた人物に、市河彦太郎がいる。
光治良より一年先輩で、外交官で文学愛好家だった。彼が紹介してくれた井上先輩の
言葉「故郷の塩になるために、沼津で有益な仕事がしたい」。後に沼津毎日新聞の社
長になられたと言う。
 市河は光治良に文学のすばらしさを教えた、兄貴のような存在ではなかったかと
思う。
光治良は井上先輩の言葉に、深い感銘を受けたという。
 だからこそ芹沢文学は、故郷のみならずヨ本、世界にとっての塩になったのではな
卜かと思うI               」
光治良と川端康成展
    沼津市芹沢光治良記念館
第一回・令和元年六月十五日〜十一月三十日
第二回・十二月十五日〜令和二年五月三十一日
お知らせ‥和田稔氏が残した日記、ノートなどをたどり
ながら、当時の戦友たちをたずねた記録のビデオ再生が、
来年一月の新年会でできそうです。
posted by セリブン at 21:29| Comment(0) | 芹沢文学愛読者の会 名古屋
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