seri1.jpg unmei6.jpg 文学評論 連載「芹沢文学講話」C 芹沢文学研究会 代表 小串信正: 芹沢光治良文学愛好会

2016年09月14日

文学評論 連載「芹沢文学講話」C 芹沢文学研究会 代表 小串信正


  芹沢光治良氏と苦学・向学

 芹沢光治良氏は、自伝を多く書いています。『神と死と冨と』「私の青春時代」「捨犬か雑草のように」「わが青春」などがあります。これらに繰り返し書かれているのは、貧困化と苦学の幼少・青年時代のことです。この苦学の忍耐は、向学心による人間形成の足跡でもあります。芹沢文学の大きな魅力がここにあります。今回は「苦学」「向学」について講話します。

芹沢光治良氏は、我入道の津元[網元]の次男として生まれましたから、中学やそれ以上の進学も十分に可能でした。しかし、両親が天理教に入信し、祖父のリュウマチや父の悪性ひぜんによる重病を癒されて家族や一族でも受け入れたのですが、明治33年に両親が財産を処分して家を出て、宣教師の道を歩むことになったので、芹沢家は零落してしまいました。祖母に懐いていた次男の光治良は祖父母の実家に残して行ったのです。祖父の不満は光治良に辛く当たることになりますが、祖母の愛や信仰に育てられます。幼少から神童と言われる程で、近くの寺子屋の師匠に養子に求められましたが、祖父が断ります。また上香貫に別荘のあった石丸助三郎氏にも養子の話しがありましたが、纏まりませんでした。楊原小学校に入学しましたが、我入道の子供と同じように、下駄が減らないように途中は裸足で通い、学校に着いてから足を洗って下駄を履きました。漁の出来ない冬の期間には弁当を持って行けずに、昼食時間に外に出て井戸の水を飲んで我慢するしかありませんでした。家では全く勉強しませんでしたが、学校で全て覚えて優秀でした。しかし、祖父の命令で漁師にするために五年生の夏休みから三吉叔父の船に乗せられて沖に連れて行かれます。幼児の時に池に落ちて死にそうになったこともあり、水を恐れ、生臭い魚の臭気にも耐えられず、いつも船酔いしました。祖母や叔母の提案で、町の呉服屋や菓子屋の奉公に出されそうにもなりました。代用教員の影響や兄真一氏の中学入学もあり、中学への進学を念願します。天理教の神に熱心に祈りますが、学費は恵まれず、親類[浜の家]の郡会議員に相談すると四人の住所を教えてくれました。丁寧に手紙を出したら、月になって海軍の軍人[実は父に助けられ、妹とみの夫となった仁藤金作氏]から、月に三円の援助をしてくれることになり、受験勉強をしていませんでしたが、沼津中学に三番で入学出来たのです。苦境を切り開いたのは光治良少年のひたむきな向学心に由ります。志が有れば助けてくれる人がいるもので、扉も開かれるものです。漁師にされる「宿命」を克服して、中学に進学出来たのは、光治良少年の「運命」を大きく切り開いたのです。

 芹沢光治良氏は、中学に進学したことで村八分にされたことは、先に書きましたが、叔母に励まされ、教会の会堂の隅で勉学しました。辞書が買えなかったので英語や国漢の成績が少し悪かったのですが、二年生から成績が二番となり特待生として二円の授業料が免除され、級長にもなりました。しかし、弁当を持って行けないことは続き、体力が衰えていて、体操で雨の中を無理に走らせられ、四年に進級する試験の直前に風邪から乾性肋膜炎になりました。この時に天理教の教会長が来て、中学を退学するように言われたのに反発して、天理教から離れました。文芸部の委員となり、学友会報などへ優れた作文を発表しました。皇太子[のちの大正天皇]行啓記念館が完成して、図書室係となって読書し、文学書を愛読するようになりました。有志[市河彦太郎・橋爪健・北側三郎等]と同人回覧誌を刊行したりもします。図画教師の前田千寸先生から雑誌<白樺>を借りて読み、フランス文化・文学への眼が開かれ、後のパリ留学への夢が植えつけられました。大正年の月に「難船」と題して演説し一等賞となり、沼津中学第十一回生として卒業しました。中学の年間、日記を書かされ提出しましたが、それを読み続けた砂崎徳三校長から、学資を貯めるために、沼津小学校の代用教員を一学期やってから[二学期分の給料を貰い]、一高への受験勉強をするために原町の豪農植松家に住込み家庭教師をすることを世話してもらいました。植松家の待遇で体力を回復し、夫人の優しい心遣いに母親の愛を知りました。中学でも援助してくれる人々に出会え、一年後に一高文丁[仏法科]に合格します。一高に入学して、夏休みなどで帰省すると歓迎してくれました。この植松家の家をモデルにして架空の石田家[先輩の市河彦太郎氏を石田孝一のモデルにして]を虚構して、森家と対にして大河小説『人間の運命』の土台にしたのです。

一高には天下の秀才が集い、多くの学友・親友が出来ました。寮生活は素晴らしいもので、演劇・音楽・絵画なども楽しみましたが、次第に学資に窮するようになりました。砂崎校長の紹介で、工場経営で成功した月島の安生家[安生慶三郎・すゑ夫妻]から学資の援助を受けました。その娘鞠さんとの付き合いが始まります。寮の食費が払えず、食堂では食べずに空腹で我慢したこともあり、学友から援助されたこともありました。 有島武郎氏の「草の葉会」にも参加し、文学にも目覚めました。二年生で文芸部委員となり交友会雑誌に短編小説「失恋者の手紙」を発表しました。この処女作が縁で、一年後輩の川端康成氏を知ることになりました。またフランス語の教師石川剛先生からメリメの小説『危険な関係』の下訳を依頼されたり、大学では仏文科に進学することを勧められました。翻訳のアルバイトや家庭教師も余りなく、慶応大学生Sと知り合い、毎週の土曜日に銀座の洋食店で御馳走になり、英作文の宿題をしてやったりもしたようです。三年生の最後の学期となり、授業料を滞納していて卒業試験が受けられなくなる窮地になりました。寮の便所に、たまたま捨てられていた国民新聞に船成金の緒明圭造氏が貸費制度を設けたという記事を見て、藁をも掴むつもりで品川の御殿山に訪ねると、明朝の7時前に来るように言われます。雪の降る翌日の早朝に再訪して、緒明氏に援助を訴えました。「伊豆の学生のみだ」と断られますが、一心にお願いすると、「我入道は駿河で近いので出してやろう」いうことになり、とりあえず十円紙幣三枚を貰いました。この金で高校を卒業して大学へ進学することが出来たのでした。

芹沢光治良氏が如何に苦労して高校を卒業したかが知られます。中学・高校の8年間は苦学の連続でしたが、その逆境が「忍耐」と「希望」の芹沢文学精神を培ったのです。もしも幼少の時に石丸家の養子になっていたら、こんな苦学を味わうことは無かったでしょう。石丸助三郎氏[田部直道のモデル]には一高生の時に再会し、麻布の家に来るように求められましたが、緒明奨学金[毎月二十二円]が保証されたので、やっと広尾町の石丸邸の離れを借りて下宿させてもらいました。養子にはなりませんでしたが、ペール[魂の父親]として生涯の親交を続けました。大学に通いながら外務省条約局の翻訳アルバイトもして、ようやく経済的な困苦から抜けられました。安生鞠さんとのプラトニックな恋愛を続け、図書[経済学書や西田幾多郎の『善の研究』等]を貸したりもしました。大学の研究室では糸井助教授の指導を受け、フランスのデュルケム学派の経済学・社会学を研究し、マルクス・レーニン主義には批判的で、プルードン・バクーニン・クロポトキンなどのアナーキスト[無政府主義という日本語訳は良くない。社会的自由主義]に共鳴しました。しかし、安生氏には社会主義者と誤解されました。その誤解を解きたいこともあり、学友の菊池勇夫君に誘われて高等文官試験の受験勉強を石丸別荘・近藤邸・青龍寺・松蔭寺等に合宿して、行政課に合格しました。ここでも向学心を大いに発揮したのです。

大正11月に東京帝国大学を卒業し、農商務省に入り高級官吏の道に進みました。農政課[石黒忠篤課長・小平権一室長]で小作争議調停法の制定等に関わり、夜間にドイツ語も学習しました。大正12月に、文通の交流を続けていた安生鞠さんがドイツに留学しました。しかし、日に関東大震災が起こり、翌年の2月に我入道の火災で三吉叔父の家が焼失してその再建費に貯蓄の全てを贈ります。秋に農林事務官に任官されましたが、畜産局から山林局へ配属されて、12月に秋田営林局に赴任します。ところが、愛していた安生鞠さんがドイツで留学中の中山医師と婚約[翌年に帰国して結婚]したことが知らされます。失われた人安生鞠さんは、理想化されて、後に創作されることになります。失恋の苦悩の中で、官吏にも失望していたので、退職[賞与二百円]を決意します。退職を慰留され、嘱託扱いで、憬れのパリ[ソルボンヌ]大学へ留学します。糸井助教授の遺志を継いで、パリ大学のシミアン教授等の指導を受けることにしました。石丸氏は失恋を聞き、旧友藍川清成[弁護士、愛知電鉄社長]の娘金江さんと結婚して、一緒に留学することを勧めます。石丸家と藍川家で援助することになりました。大正1429歳のフランス留学は、学者としての新たなる向学心に由りますが、ここでも「運命」が大きく変わることになります。

パリでは16区ボアロー街48番地の家に居住し、シミアン教授の研究室に入ります。この家でバルザック研究者ベルソール氏に出会い、多くの著名な人々と交際します。一高の時以上に、演劇・音楽・美術・文学にも熱中します。昭和月に長女万里子が誕生。月に無理して卒業論文を書き上げたのですが、肺炎で入院し、肺結核と診断されます。プヌモも効かず、フォンテンブローに転居し療養します。本格的な闘病地を探しにスイスのコー、ダボス、レーザンなどを巡廻しますが、スイスフランが高いので、フランスのエーン県オートヴィルの高原療養所ホテルに入所します。大学生3人と組になって闘病生活を一冬続け、結核を克服します。ここで作家のケッセルに出会い、ジャック[シャルマン]の勧めで作家になることを決断して、闘病しながらバルザックや多くのフランス文学作品を精読しました。スイスのレーザンでも闘病しました。

昭和11月に帰国して、中編小説「ブルジョア」を創作し、改造社の懸賞小説に当選します。中央大学の講師も辞めて、闘病しながら作家生活を始めます。「作家・芹沢光治良」が形成されたのです。  〔平成28(2016)月識〕

posted by セリブン at 09:59| Comment(0) | 芹沢文学講話
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