seri1.jpg unmei6.jpg  文学評論 連載「芹沢文学講話」A 芹沢文学研究会 代表 小串信正: 芹沢光治良文学愛好会

2016年09月12日

 文学評論 連載「芹沢文学講話」A 芹沢文学研究会 代表 小串信正


  芹沢光治良氏の生育の地(故里)・沼津
 芹沢光治良氏は、静岡県駿東郡楊原村我入道一番地に、父芹沢常晴、母はる(有馬氏)の次男として生まれました。長兄真一と弟妹亀太郎・智恵・常太郎・一雄・喜久・武夫・常雄・清・末敏・茂の十二人もの兄弟姉妹であったのです。楊原村は現在の沼津市に組み入れられていますから、芹沢光治良氏の生育の地・ふるさと(故里)は「沼津(市)」であると言えるのです。旧沼津中学校跡地に建てられている詞碑には「わが命果てて 天に昇るとも/魂の故里パリ・東京に舞いもどるたび/命の故里沼津に飛びて/市民を見守り 幸を祈らん/九十一翁 光治良」と刻されているように、沼津は「命の故里」であるのです。
 芹沢家の詳細な系図が遺されているか不明ですが、生地我入道を初めて訪ねた時に吃驚したのは、生家は無く石碑「沼津市名誉市民 芹沢光治良生誕地跡」があるだけでしたが、近隣や我入道には芹沢の表札が溢れていたことです。こんなに分家や親類があるのかと思ったのですが、沼津市にも多くの芹沢氏があるのです。これらの芹沢氏一族の本家がどこにあるかは知りませんが、我入道の芹沢氏の本家は網元(津元)であった芹沢光治良氏の家であったようです。
 芹沢家の先祖は「芹沢家系図」には「芹沢藤右衛門六男 天保八年三月十一日 我入道村一番地へ分家」とあり、芹沢長三郎→常吉→常蔵(常晴)→光治良と繋がっているのです。大河小説『人間の運命』の第1巻・序章『次郎の生いたち』には兄一郎が生まれた時に祖父常衛門が「十二代常衛門たるべき男子」と言い、「この家の祖先が武田家と武士とをすてて御殿場に土着してから」とも書いています。光治良少年は祖母久米に育てられ、子守唄がわりに先祖の物語を聞かされて育ちました。そのことは短編小説「小さい運命」に「私の祖先は西方から船で渡来したといい伝えられている。多くの家来を引き具して二つの宝物を奉じて、東方へ向う途中、駿河と伊豆との境の故郷の村に流れついて、そこへ上陸し、呑気に魚をあさって飢をしのぐうちに、いつか居ついてしまって一団の漁村をつくったのである。」と書き、「歴史物語」には桓武天皇からの平姓で今川氏や武田氏の臣下から武士を捨てて農民となったことなどが書かれています。祖母の先祖物語は、貧窮した生活の中で幼い光治良に誇りと希望を与えたのです。人は延々と一度も途切れずに続いた命の繋がりなのです。
 兄は母の実家で生まれたようですが、次男の光治良は両親の天理教の信仰から、『次郎の生いたち』に書かれているように父の家で生まれたようです。それで、我入道海浜に「芹沢文学館(現芹沢光治良記念館)」が建立されているのです。我入道という地名は特異ですが、大河小説『人間の運命』第2巻『親と子』に「我入道|面白い名前だが、日蓮上人が滝の口の難を逃れて後、漁船にかくれて鎌倉を逃げたのだが、潮か風の具合で、船が君の村に流れついて|この土地こそ我が入る道であると、宣言しながら上陸して、身延山へ行ったことから、我入道と呼ばれるようになった」という説を書いています。
 両親が天理教の信仰で〔注/『次郎の生いたち』では、池に落ちた瀕死の次郎に天理教のお授けをして、蘇生したら財産を捨てて教祖中山みきの雛形となると誓ったことによる〕、相続した芹沢家の財産を処分し家を出て伝道師となったのです。祖母に懐いていた次郎は仕方なく残していったのを、幼心では両親に捨てられたと思い込んで傷つきました。父親の信仰は、アッシジの聖フランシスにも似て尊いとは思いながら、芹沢氏は生涯にわたり両親を許すことが出来ませんでした。風に鳴る碑には「幼かりし日 われ 父母にわかれ 貧しく この浜辺に立ちて海の音 風の声をききて はるかなる とつくにを想えり  一九六三年 芹澤光治良」と詠み、孤絶の碑には「ふるさとや 孤絶のわれを いだきあぐ  八十五翁 光治良」と刻しました。4歳で突然に両親がいなくなり、残された祖父母などの家族が急に貧困になったことは、光治良少年にとって大きな運命であったのです。しかし、この貧困を味わい苦学したことは、作家としての人生を切り開くものであったのです。幼少からの困難こそ、「芹沢光治良」という偉大な作家を育成したとも言えるのです。
 芹沢光治良氏が狩野川の河口の我入道で育つのに、大きな影響を与えられたのは、駿河の海と富士の山でした。駿河湾は漁民に自然の「母のような恵み」をもたらすと共に、冬の荒れた海では難船で犠牲者を出すものでした。富士山(富岳)からは、困難苦難に耐えている時に「父のような激励」を受けました。それで、沼津市民センター内の詩碑には、「とつくにに/死とたたかいし/わかき日々/われを鼓舞せし/富岳よ 海よ/げにふるさとは/ありがたきかな/八十四歳 光治良」と詠み、富士山と駿河湾に感謝しているのです。 また、我入道連合自治会館の壁面の石碑にも「われ この地に生れ 跣で育ちて/世にはばたけど 時に西風 胸を叩きて/だせん(難船)だと おびやかしてやまず/されど清き狩野の流 心を洗ひ/けだかき富岳は常にわれをはげませり/翁になりて帰れば/村人は豊かに極楽人になりて 我を迎う/思へばありがたきかな/本籍ここにありて/極楽人の仲間なるを/一九八三年 八十六翁 光治良」と刻されています。この詩には狩野川の流が心を洗ってくれたと詠まれています。沼津の自然や人情が光治良少年を大きく育てたのです。
 人は何処で生まれたかというのは大きな意味があると私は思っています。特に作家にとっての故郷は大きな意義があると言えます。親の仕事で、本籍ではない所で生まれることもあります。作家横光利一氏は、父親の本籍は大分県宇佐市ですが、仕事で滞在していた福島県北会津郡で生まれました。利一氏は、のちに本籍地を父と同じ宇佐市にしています。細かく言えば、母親の生家に帰って産むことが多いので、生育の地と違うこともあります。多くの偉人は故郷を出て学び、都会の地で業績を上げて評価されるものです。芹沢光治良氏もその一人で、一高・東大・パリ大学で学び、東京や中軽井沢に在住して創作をしました。沼津市の名誉市民に選ばれたこともあり、死後の芹沢家の墓地を生前に沼津市営墓地(中瀬町沼津市斎場前)に決めて、墓碑銘も自作しました。墓石の正面には「芹沢光治良 その家族 の墓  古ごろも ここに納めて 天翔けん  一九八二 八十五翁 光治良」と刻し、上面の本の形の墓石に「自己確立のために/東大 パリ大学に遊んだが/病を得てから/自ら求めて学んだ/イエスに生と愛を/仏陀に死と生を/中国の聖賢に道を/科学者の畏友ジャックに/大自然の法則と神の存在を/かくて孤独に生きて/ひたすらただ書いた/光治良」と刻しています。作家芹沢光治良氏は、没後に沼津に回帰したのです。沼津で生まれ育ち、常に故里沼津を想い続け、没後には沼津に帰ってここに眠っているのです。芹沢光治良氏こそ、沼津が生み育てた偉大な作家と言えます。駿河銀行の財団法人が設立した「芹沢文学館」は「沼津市芹沢光治良記念館」として沼津市に引き継がれています。今後も沼津市は、記念館を中心にして「芹沢光治良」を研究や顕彰していかねばならないと思います。
 楊原尋常小学校(現沼津市立第三小学校)へ通いますが、我入道の子供たちは弁当を持って行けずに、校庭の井戸で水を飲んで耐える日々を過ごします。一介の漁師の家となった祖父母の芹沢家には、叔父三吉家族が同居するようになりました。光治良少年も漁師になるために叔父の船に乗せられ海に出ますが、3歳で池に落ちて死にそうになった体験からの水への恐怖心、そして本能的な魚の腐った臭いに耐えられず、常に船酔いに苦しめられます。神童と言われた有能な少年は中学校への進学を希望しますが、祖父からは頑固に拒絶されます。その頃は認められて建てられていた天理教の宣教所で神様に一心に祈りますが、中学へ行くための金は恵まれませんでした。それで、叔母とみの夫で海軍の軍人であった仁藤金作氏に必死の便りを書いて、やっと中学へ通う資金(毎月3円)を出してもらうことになりました。特待生となり授業料が免除されるようになったので、5年間通学することが出来ました。貧しいのに中学に通うことで村八分になりましたが、叔母ちかに励まされました。毎日書いて提出していた日記を砂崎徳三校長が読み、植松家の家庭教師をしながら、沼津尋常高等小学校(現沼津市立第一小学校)で代用教員をする道を開いてくれました。こうして高等学校への進学資金を貯めることが出来たので、夏休み以後は受験勉強をして第一高等学校に合格しました。沼津市を出て大きく雄飛することになるのです。
 沼津中学時代には、多くの学友に出会い、様々な教師に指導を受けます。その中でも美術教師前田千寸先生には、雑誌「白樺」を紹介され、フランスなどの西欧への憧れを喚起されます。『親と子』に前川先生として登場させ、図画の時間に香貫山へ引率して、生徒たちに山頂から展望させます。次の文章は、森次郎の香貫山からのふるさと(故里)沼津や富士山までの遠望です。「大河小説『人間の運命』文学碑」として石碑に刻して香貫山に建立することを提案します。いつの日にか、芹沢文学の愛読者による篤志(寄付)で実現したいものです。
〈わが住む土地を、次郎は初めてよその土地のように眺める思いで、目を
見張った。 眼下にひろがったパノラマの中央に、足下の山麓から駿河湾へ、白く光って大きくS字形を描いているのが、あの狩野川であろうか。こんなにも川幅が広くて、まんまんと水を張っているとは知らなかった。その右岸にかたまって静かな家々が、沼津の街であろうか。
二万人足らずの人口が、このなかにかくれているのであろうか。町の背後に、菜の花であろう、黄色な平野がかすんで拡がり、紺青の海との境に、黒いふちどりがつづいているが、河口から千本松原をへて三保松原につづく松林が、こんなに一刷けの黒色であろうか。
町の北側に、屏風のように愛鷹山が控えているが、その頂が切りとられたようにけずられて、その上に富士山がのり、愛鷹山
の斜面は遠く東に箱根山につらなっている。次郎は息をのんで眺めていた。〉

posted by セリブン at 10:48| Comment(0) | 芹沢文学講話
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