私は母といっしょに暮さなかったから、母の愛を知らない。私の三つの時、両親は私を祖父母のもとに残して、兄と弟をつれて故郷を去って伝道生活にはいつた。
家は代々漁村の網もとで、熱心な真宗の信者であった。父は長男であったが、新しい神を信じて、その信仰に徹するために、無所有の生活に生きた。その父の改宗と転身は、親類縁者にたいへんな波紋をおこしたようである。
両親は隣町におちついた。私は小学生の頃から、年に二三回、両親の家を訪れる機会があった。父は他県に伝道に出て、いつも母が内職で生計をたてていた。紙屑を買って手すきの再製紙をつくつていた。貧困と汚辱のなかにいるように見えて、私は母を訪ねることに嫌悪を感じた。美人だったと祖母から聞いたが、紙屑のなかの母は醜女に見えた。
ある時、垣根の外で母が品のいい老人と話して泣いているのを見かけたことがある。小学校の二年生の頃のことだが、その老人が母の実父だと、祖母から教えられた。
母の実父は、信仰や貧困には絶対反対で、子供をつれて帰るように母にすすめたとも聞いた。しかし、母は父にしたがって、父の信仰と生活をともにして、実家から義絶せられたと聞いた。そういえば、その老人を一回見たぎりで、私は母の実家をついに知らなかったし、の同胞にも会ったことがない。母の死後、偶然に母方の従兄(じゅうけい)、や従妹(じゅうまい)に会う機会があって、母の実家についていろいろ聞かされて驚いたような始末だ。
父は信仰をいのちにして自ら清貧に生きたのだから、どんなこともたえられたろうが、母が無所有の生活をよくたえたと、私はいつも感している。父は全く無収入で、母が内職でやっと子供等を養っていた。男八人と女二人の子供をもうけ、女の腕一つで育てあげて、その上、各自希望するだけの教育を受けさせた。全く不可能なことだが、それをなしとげた。母は神様のおかげだといっていたが、そのためには母も子供等も想像に絶した苦労をした。
母は子供等に、母の希望や意思をおしつけたことがなかった。学校にしろ、職業にしろ、結婚する場合にも、母は(父もそうだが)意見をのべずに、子供に委せていた。恐らく、祈って神に委せていたのであろう。それゆえ、子供等は自己に責任をもつて、自由に生きた。子供等が結婚しても、子供等の妻を嫁として扱わないで、さんづけで呼んでいたし、孫を孫として扱わなかった。
子供等の幾人かが東京に家を構えても、一度も東京へ訪ねなかった。子供等の生活をさまたげたくないといつていた。子供等が訪ねれば喜んで迎えたが、招くことはしなかった。
晩年は、信者仲間から尊敬せられたようだが、無所有の生活はかえなかった。お茶をつくることが好きで、春になると、お茶を
作って、東京の子供等に送るのをたのしみにした。手製のお茶は、とくにいいわけではないが、故郷の香りと母の香りがした。何かの都合で、自分でお茶がつくれない場合は、知人のつくるのを買って送ってくれたようだが、やはり母の香がした。
子供等が東海道線で旅行する時間を知らせておくと、駅には来ないで、家のすぐそばの踏切に必ず立って、手をふっていた。その様子は、子供がいくつになっても、愛してやまない母の姿であった。それゆえ、ふだん、他人の目からは子供等によそよそしく見えるような母であったが、そのよそよそしさは、子供をわが子だと扱わないで、神の子だと扱ったからのように思われた。子供に対しても、親は礼儀を守らなくてはいけないといつも言っていたが、それを実行していたのであろう。
私は母と暮さなかったから、母の日常性をあまり知らない。私が大人になってから母をほ
んとうに知ったように思うが、一度も愚痴や不平を聞いたことがなかった。器用で、働きもので、休むということを知らなかった。
月のいい夜に死にたい、それが唯(ただ)一つの願いだと、母はある時冗談をいつたことがある。その言葉に、私ははっとした。そんな冗談のなかに、一生がほんとうに不幸だったと、感慨をこめたように考えられたから。実際、信仰の他にはなに一つ楽しみもなく、貧困のなかに十一人も子供をうんで育て上げるために、自分のすべてをそぞきこんだように、やせて老いた母は、女の不幸を現しているかのように見えた。そして、私達には、その母をしあわせにすることができなかったから-子供等に求めるところもなく、子供等が孝行しようとしても、それでしあわせを感ずる母でなかったから、私はせつない気持がした。
それから数年後になくなったが、母が希望したように、中秋名月の夜に息をひきとった。夫と子供等と神とにすべてをささげつくして、おだやかになくなったが、八貫もなかった。母の遺髪は父が最後にきよめたが、父は独りで、ご苦労さんだった、ご苦労さんだったと、つぶやきながら、母の最後の化粧をした。母の心をおしはかってか、父は灯を消して、月光の下で化粧をした。月の美しく晴れた夜であった。ご苦労さんだったと、その一生を感謝するような父の言葉を聞いて、私は母の一生も、幸そうに見えたが、しあわせだったろうと、本心思った。
母の死後、父はよく母のことを私にも語った。一回も夫婦喧嘩しなかったと聞いて、信じられない気がしたが、母が一回も父に向って、生活の愚痴も、貧困の不幸も、信仰の疑惑も言わなかったと知って、それならば夫婦喧嘩はないはずだと納得した。
父は母の死後、十数年以上生きのびた。その父は母の追憶に生きたようだった。よほど妻としてもよい妻だつたのだろう。それを思うと、私は心があたたかくなる。
(筆者は作家、『巴里に死す』『サムライの末裔」などの小説は仏訳されて、フランスでも評判になった。)
2024年3月の月例会のテキストは、『手蹟』でした。司会の芹澤均氏が選んだこの作品は、人間について考えさせるものでありました。そして、勇気づけられました。この小説は、姉が弟への書き出しで始まっていますが、内容は、このエッセイに書かれているように事実をもとにして書かれています。