沼津市芹沢光治良記念館
一企画展一案内一
『孤絶』 『離愁』 『巴里に死す』
芹沢光治良がフランスへ留学し、スイス等での結核療養を経て作家を志した転換期を基に創作した作品 『孤絶』『離愁』 『巴里に死す』 が通して紹介されます。
期間 第1回6月15日 (水)〜11月30日 (水)
第1回の展示では「孤絶」
の書簡、資料などが初公開。
第2回12月15日 (水)〜5月31日 (水)
今年も『紙上3分間スピーチ』完成
コロナ禍で新年会は中止となった。 そこで今年も 『紙上 3分間スピーチ』 を作成した。 第2号となった。
今年は、 新年会準備委員7人が名古屋市の女性会館 (イーブル名古屋) に集まって製作した。 印刷機はハイスピードの最新機
が借用できた。 その結果、 順調に進んだ。製本、チェック、 封入は各自分担し合って流れよく進めた。 その結果ポストに夕刻前までに投函できた。
今回は中島宣予さんが会場、 昼食、おやつまでお世話下さり大助かりだった。
今回担当くださった方々は、 中島宣予、前田操、 後藤智代、 近藤英子、 伊藤見枝子、安井恵美子、安井正二の皆様。
芹沢光治良先生八十五歳の近況を語る
毎日新聞 「お元気ですね」と題したインタビュー記事。
昭和55年12月15日付
「(病弱で) とても四十歳まで生きられそうもないだろうと思っていた」 人が、いま満八十五歳。トシをとってから逆に以前より健康そう、と知人たちをびっくりさせている。
昭和五年『ブルジョア」』で文壇にデビューしてから五十年。 『巴里に死す』などの作品で海外にも知られるこの人、六十代から七十代にかけて全十八巻におよぶ大河小説『人間の運命』を完成させ、その後も毎年一作のペースをくずさず、小説ひと筋に打ち込んでいる。
「そうなんですよ。 子どものころから病気ばかりしていましたからねえ」
立派な文学碑が立つ郷里・沼津で過ごした少年時代は極貧の生活だったから、ずっと栄養失調。長じてフランスへ留学しているとき肺結核で倒れ、スイスで二年近い療養所ぐらし。この病気は”規則正しい生活で二十年がかりでやっと克服した。と思ったら、こんどは五十三歳のときゼンソク、 これは持病となり、 七年前まで苦しめられた。
「ひどい目にあいました。それが、あるとき, アレルギーだということが判明して、二回ほど注射をしたらピタリと治まっちゃったんです」
病気ばかりしていたのに、とうとう八十を越えなお元気だというのだか
ら人間の運命なんてわからない。「戦前、葬式代のつもりで保険に入ろうとしたけど、入れてくれませんでね。
戦後には、アチコチの 保険会社が勧誘にきましたが、健康診断でみんなダメ。いまになってみれば保険会社は損をしたことになります」温顔がニッコリ。
「還暦のとき、あらためて私の人生は、拾いものだったなあと思いましたよ。そこで、よしこれからは頼まれ仕事はやめて 、好きなもの を書くことにしようと決心しました。欲を捨て、義理を欠き、自由に仕事をしようとね。きっと、それに徹したことが今日まで長生きできたことにつながるんじゃないでしょうか」『持ち時間を大切に』」がモットー。
起床、就寝、仕事、食事の時間はつねにきちんと守っている。これも長寿のヒミツだろう。家には奥さん(77)と娘さん夫婦
がいっしょ。
健康法らしいこととして、三年ほど前から就寝前の三十分間、 足を組んで腹式呼吸をやっている。「八十を過ぎたのだから、いつ死んでもいいと思っていますが、生きているって面白いですものねぇ」
画家の小山敬三さんとは五十年来の友人。その小山さんの近業に触れて、しみじみと語った。
「”富士”を見て。ムダにトシをとっていないなあと感心しました。実に見事。人生の冬を迎えながら、また春を迎えようとしている。私も見習いたいと思っています」
コロナ禍の影響もあって、短信もお休みしていました。このたび、沼津芹沢光治良記念館から、企画展の案内を頂き、お伝えしたくて久しぶりに短信作成を始めました。進めていると、手元の古いファイルから新聞の切り抜きが出てきました。見ると
40年も前の芹沢先生の記事。そこには、八十路を歩く先生の姿を見る思いでした。それは同時に森次郎の姿でもありました。そこで、その記事ここに紹介
いたしました。