岩手北部で震度6強の地震が起きました。私が住む千葉県でも結構揺れました。夜中に起きた地震は、暗闇の中での避難は、 怪我された肩が多く心配です。被害の全容は明るくなると共にハッキリと解るのではないでしょうか?
各地の被害にあった県では、行政で、防災対策本部を設置し、早めに被害の状況把握をしているようです。
大きな被害を受けていない東京都なども災害援助隊をもう現地に派遣したそうです。夜明けと共に状況把握救出活動が始まるのでしょう。
神谷氏の講演について更新が遅れてすいません。これから少しずつ更新しますのでお読み下さい。
私はキリスト教の信者ではありませんが、何かキリスト教に引かれるものを感じ、そこに導かれていろいろ調べたり、本を書いてきたりしました。 近代と日本のキリスト教の関わりは、大変面白いテーマだと思うのですが、あのープロテスタントの観点から内村鑑三さんとか、 いろんな方が何回も論じて本を書いていますけど、カトリックの方は地味であんまり研究は行われていません。そんなこともあって今回、 こういう本を書いてみました。
今日のテーマの「芹沢光治良とカトリシズム」というタイトルをつけさせていただいたのですが、カトリシズムというのは、西洋、 ヨーロッパというふうに言い換えてもいいと思います。「芹沢光治良とヨーロッパ」というふうな感じで、 やはりこの世代の人たちは明治の終わりから昭和のはじめぐらいに生まれた方というのは、 西洋というとヨーロッパでアメリカではなかったですね。私ぐらいの世代になりますと、アメリカの影響が、私はあまりアメリカに興味はなくて、 ヨーロッパの方に惹かれるものがあったのですが、 ただ実際に自分がどういう影響のしたに生きていくかというとアメリカの影響が強いと最近感じています。ヨーロッパ体験、 芹沢さんの世代明治の終わりから昭和のはじめぐらいの人までのヨーロッパ体験、キリスト教体験、カトリック体験みたいなものがですね、 自分でやっぱり親の世代とかもう少し上の世代ということで人事ではないような関心が私にはあります。
そういうような文脈の中で今回芹沢先生について調べたものを書いたわけですが、おもしろいと思ったのは、 芹沢さんと高田博厚さんという彫刻家の方で文章の大変たつ方がいらしゃいました。 世代的にはほぼ同じで芹沢さんのほうが三つぐらい年上というのでしょうか?高田博厚さんが1900年生まれだと思います。 芹沢先生が1897年、ですからほぼ一緒。留学したのは、高田さんのほうがあとですけども、 そのあとずっと第二次大戦挟んでずっとフランのほうに高田さんはいられた。この二人は似たところがあって、ただ違うところもあって、 大変私にとっては面白かったです。
今日は、ちょっとその辺の話を中心にさしていただきたいと思います。
改めてもうすまでもありませんが、芹沢先生のお父様とお母様は天理教の熱心な信者でありまして宗教的な環境の中で育ったと。 少年時代は神というものを一生懸命考える少年だった。 高田博厚さんもお母さんは熱心なプロテスタントの信者さんで高田少年も12歳ぐらいで洗礼を受けています。 キリスト教の神というものを非常に考えていて同志社にいってそういう牧師かなんかになったかなろうかという気持ちがあったぐらいですけど、 芸術家になりたいと思い上京してきた。
そういうキリスト教、天理教という違いはありますけども、神というものについて一生懸命考える育ちにあったというところが共通しています。
芹沢さんは、小説家になられて、高田さんは彫刻家になられてという違いはあります。
二人とも大正の理想主義みたいなものを非常に若いときに受けていまして、それは一生貫いているものと思います。 片山俊彦さんにもそういうことは共通していると思います。理想主義とヒューマニズムというものをですね、
ヨーロッパに行くと、ヨーロッパに行くと向こうでヨーロッパの理想主義という息吹に実際触れる。それが具体的な人間関係とか、 そういうところにも生きている。なにか知識的なものではなく、実際にそれが人間関係の中に生きている。 たとえばサロンがあってそこでもてなされるか、それから高田博厚であれば、先に片山俊彦がお父さんのお金で留学しているわけですけど、 あとから自分の作品の頒布会かなんかやって何とかお金を工面して子供もいるし奥さんもいたけども、 その後捨てるような感じになってしまうけども、ヨーロッパに渡ると。 向こうに行って何もフランス語ができないのに非常に親しげにその片山が紹介する言葉が通じないのに本当に親しくもてなしくれるのですね。 そこに高田博厚さんは非常にびっくりしていうふうにとまどうと。感激していったいなんだろうと、 とまどうとそこにいったい何があるのだろうと感じて向こうのそういう世界に入っていくわけですね。その点は、 芹沢先生も高田さんも似ていたところがあったと思います。
で実はこの本で10人の人を取り上げて書きました。ある方が出すね、こういう感想を下さったのです。何かといいますと、 ここで取り上げた10人の人たちというのは、全員がですね、何か運命みたいなものが、自分を運んでいこうとする、その時、 行き着くところまでとにかく行き着こうとする人たちが取り上げられていると言われたのです。何か途中で止めてしまうのではなくて、 自分が何か運ばれていくことを運ばれていくその先の先まで自分がとにかくそこまで行ってみようと言って行こうとした人たちが取り上げられているというふうなそんなふうな感想をある方がくださいまして、 それは著者の私には気がつかなかったことなんですけど、言われてみるとそんな風な気も確かにして、嬉しかったんですけどもね、 高田博厚さんは確かにそういう人でした。彼はこの中にも引用しましたけども、私は運命に逆らったことはないという言い方をしています。 このことは大変印象的で、いわゆる運命論者的なものではなくて、何か人間的な努力とかいろいろあるのだけれども、 そういったものを超えたところで、何か自分を運んでいくものがあって、それには逆らわないというんですね、その運命というのは、 自分の心の中を耳を澄まして、こう本当に孤独になって耳を澄ましたときに、聞こえてくる声みたいなものがあって、 それしかないというそれが運命の声だみたいにどうも彼は、認識をしていて、彼はフランスにいてずーと向こうにいましたけど、 最後に日本に帰ってくる時でも、やっぱりそういう運命みたいなものを感じて日本に帰ってくるんですね。
その辺は、芹沢光治良先生にもやっぱり、あったんじゃないかという気がします。行きつこうとするところまで行こうとする。 運命に逆らわないで、なんか生かさられているという感じがあるのではないでしょうか。大きな力みたいなものを、神のようなものを。 高田さんは、神という言葉を使うのが怖かったみたいで、彼の『分水嶺』というすばらしい自伝があるんですけれど、 ここでフランスに渡るときに、彼は確か30歳ぐらいでフランスに渡るのですけど、年老いたお母さんが、駅まで送ってくださって、 それがお母さんを見た最後なんですけど、自分は汽車に乗って、そして冬の陽だまりの中にたたずんでいるお母さんを見下ろして、 白髪が輝いていて、そしてお母さんが列車が走り出すと、深々とお辞儀をするのですね。それを見たのが、彼女を見た最後の姿であって、 こんな風に行ってますね、「幼いときから、クリスチャンであったこの母に薫陶されなかったら、 私は一生神を考え続ける人間にはならなかっただろうという言い方をしています。高田さんはフランスに行って、 社交とか人間関係とか言うものに大変びっくりする。彼は彫刻という仕事を通して神というものを見出そうとしたわけですが、 高田さんはこういう言い方をしています。もし、彼ら(彼らとは芸術家の事なんですが)、 芸術家が運命というものを切実に感じるときがあるなら、それは自我の最も奥深いところで、最も、謙遜に、 これ以外にやりようがないと自分の中の熱情と執念とを是認する時だけだろうと、そこでは希望と絶望がスレスレにある。不安といたく(?) が同居してある。彼らにとって運命とはこれのみである。たぶんそこにのみ神があるのだろうと、そういう言い方をしているのですね。 面白いですね。ですから、高田さんにとって、やっぱり神とか、キリスト教の神も教義ではないし、教会でもないし、芸術を通して、何か、 感じ取る働きみたいななにかそういうようなものであった気がします。
私が面白いと思うのは、高田博厚さんが、芹沢光治良先生のことを芸術的なところからは、認めていらっしゃらなかったことなんですね。 ここは私には大変面白いところで、高田さんと一緒で、パリで亡くなった森有礼さんという哲学者の方がいらっしゃいます。あの、 森さんは芹沢先生の『巴里に死す』をフランス訳されていたわけですけども、その辺も高田先生は、原作はちょっと甘い感じなのだけれども、 フランス語訳にするとなんか、ずいぶん立派な感じがして、それで二人の芸術観の違いが興味深くて、高田さんは、高田さんの言い方を借りると 「芸術家の仕事というのは、世間相手のものではないんだと、非常に孤独に孤独に、やっていくもので、という発想があるのです。ですから、 芹沢先生はぜんぜんそこが違うんです。高田さんがこういっています。「ある日本の作家、これは芹沢先生のことだと思うのですけども、 ある日本の作家の小説を森有正がフランス語に訳したと、私はそれを読んで美しいのに感心した。原作は少女小説風で甘いものだが、 フランス語にするとそういうものがなくなってしまう。これはなかなか問題であろうと書いています。
『巴里に死す』というのは、大変立派な小説でフランスでは、マリクレールに連載されている。 ベルギーでは文学賞を受賞した大変立派な作品です。高田さんが、その芹沢先生を認めないのは、先ほども申しましたけども、芸術というものが、 彼の言葉を使うと世間相手のものではあってはならないといつでも、いつの時代でも、 芸術とか思想というものは少数者が担っているものだという発想なんですね。大衆と直結することはありえない。こういう考え方なんです。 これが彼の信念なのです。そういう信念なり、かつ高田氏から見れば、その芹沢さんの仕事というのは、こう理解できないと思います。
ところが、芹沢先生というのは、ぜんぜん正反対の立場の人で、大衆と一緒に、仲間内とか専門家だけで、理解しあえるような、思想とか、 芸術というものは、本物じゃないというのは、芹沢先生の考え方です。
それは、改めて私が申し上げるまでもありませんが、フランスに行ったときベルグソンを訪ねたときに、口のきけない、 娘さんのことをかいたところがありますけど、そういうふうなところとか、