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神谷氏の講演楽しみに待ちます。3

 カトリックとプロテスタントはどう違うか?
 この短い話しにカトリックとプロテスタントの違いが書かれています。

 ある日、隠れキリシタンのお婆さんがプティジャン神父の教会にあらわれて三つの質問をしました。その内容は次のようなものでした。
 「神父さま、あなたはローマのおかたから日本へ派遣されたのですか」
 「はい、そうです。私はローマの教皇きまから日本へ派遣された者です」
 「お子さんがたを見せていただけないでしょうか」
 「それはできません。カトリックの司祭は家庭をもっていないからです」
 「すみませんが、もう一つだけおたずねしたいことがごぎいます。神父きまの教会には
聖母マリアのご像がありますか」

 


 「ございます。どうぞ教会に入ってご覧になって下さい」。
 プティジャン神父がこのように答えると、お婆さんは、次のように言ったそうです。
 「神父さま、私も神父さまと同じ心をもっています」。

 このお話でわかるようにカトリックとプロテスタントは上記の違いがあります。この違いが実際にはどう違うか? キリスト教を信仰しない私達には、①ローマから派遣された意味や②マリア様のご像、③司祭は家族を持っているか、いないかということが、 信仰の世界でどのような意味合いがあるか、ここで簡単にまとめたいと思います。
  ①カトリックは教会が「唯一」であり、全世界で広がったカトリック教会は、何処でも同じ教会であるわけです。 全世界のカトリックの信者たちは同じ事を信じ、同じミサを受けることが出来、同じローマ教皇の指導の下におかれているということです。 同じミサを受けれると言うことですけど、プロテスタントには「ミサ」という儀式(秘跡)はないそうです。しかし、 クリスマスではプロテスタントはやっています。
 ②マリア様のご像 カトリックもプロテスタントも教会の建て方は似ていますが、違う所もあります。カトリックの秘跡は七つあります。洗礼、 堅信、聖体、罪のゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻があります。これらを、プロテスタントは  洗礼と堅信、洗礼と聖餐を除いて、 認めていません。聖体の秘跡を認めていないわけですから、カトリックの教会では聖ひつ(御聖体が安置されている祭壇のそばの小さな箱) がおかれており、信者は一日中キリストを礼拝できる。プロテスタントは、聖ひつはなく、マリア様とかその他の聖人の像もありません。 十字架も二本の棒で作られたもので、その十字架にキリストの像もつける習慣もありません。
 ③司祭は家族を持っているか。
  本質的な相違点は、カトリックの見解では、司教または司祭とは信者の霊的な世話をするために特別の「秘跡」(叙階) を受けた者のことですが、プロテスタントの見解では、牧師は信者の霊的な世話はしますが、他の信者とは別の「秘跡」 を受けた者とは理解しません。カトリックの司祭が結婚しないというのは、キリストの命じたことではありませんが、 相当昔からほとんどすべてのカトリック教会で習慣になってきたことです。
どれくらい昔かというと3〇〇年頃!です。スペインのエルウィラで開かれた教会会議の決議において、きらにその後、 ローマ教皇と公会議によって、司教の結婚は禁止されることになりました。
 
  今、読み返して見てこれがカトリックをとらえているとは言い切れないと思います。ただ、私が抱く疑問、 「芹沢光治良がなぜカトリックに向いたか?」もう一度ここで考えて見たいと思います。

「マルティン・ルターは、当時、教会にあったさまざまな乱用を訴えただけではなく、ローマ教皇の権能も否定しました。 彼は人間が救われるには神の恵みとキリストを信じる事がどうしても必要だが、堕落したローマ教会のような組織は、 人間に救いを与えるどころか、むしろ妨げるものと教えたのです。ルターの強調した「聖書のみ」「恩恵のみ」と「信仰のみ」という言葉は、 目に見える教会は不必要であることを示しています。・・・・真の教会とは、 目に見えない信仰によって結ばれた信者達のことであると主張します。」
       「カトリックとプロテスタント」 ホセ・ヨンバルト より

 ヨンバルト氏がプロテスタントについてこのようにまとめています。このまとめを読むと、 芹沢光治良の作品を読んでいるとカトリックに近づく事は、あり得ないと考えてしまうのです。

 ただ、先を読み続けると、プロティズムの「危険性」に気づいたというのが理解できる記述があります。

 「プロテスタントの教会の理解はこのようなものであるため、当然、キリスト教の教えや聖書解釈などについて疑問が生じたときは、その解決は各自の良心だけに任せられるわけです。つまり、信者を拘束するような教会の「権威」は認められないのです。この意味においては、 個人の良心というものが非常に重視されることになるわけです。それと同時に、プロテスタントはキリストに.よってつくられた目に見える教会は認めませんが、人間によってつくられた目にみえる教会は数多くあることを認めます。 このような諸教会の組織は、人間の意志によってつくられたものですから、現代国家制度と同じく、信者の意志に基づくもの、すなわち  「民主主義的な」制度としてとらえることもできます。
 これに対して、カトリックの立場から考えますと、教会は非常に違った性質をもつもの
となります。信仰と聖霊の働き、すなわち目に見えないものは最も大事なことですが、し
かし目に見える人間となった神(キリスト) の救いの業をすべての人々に与え続けるために、キリスト自身はただ一つの目に見える「教会」 を作ったというのが、カトリックの
教えの基本です。その構成メンバーはすべて人間であり、歴史的にみると、この自に見え
る教会に、人間によってつくられたものが多くつけ加えられたこともありますが、基本的
な構成はあくまでキリストの直接意志に基づいており、人間はこれを変えることができな
いと理解されています。教会とは、キリストの定めた役職制度(教皇、司教、司祭)をも
つ「信者の集まり」であると言、つてもよいでしょう。教会の存在理由は、キリストによって教会に任された任務と同様のものです。」
 とあります。

 確かに、芹沢光治良が指摘したプロティズムの「危険性」は、各カトリックでない様々な流派(これは正確でない書き方ですが) は創立した創立者独自の考え方、解釈が反映してます。
 日本には135以上の異なるプロテスタント教会があります。ということは、135以上の異なるキリスト教の解釈があるいうわけです。

 まもなく、6月15日(日) 午後2時 講演会 「芹沢光治良とカトリシズム」   講師  神谷光信先生 聞くことが出来ます。 楽しみです。

 

 資料を図書館から借りましたが、鉛筆に沢山線を引いてあり、消しゴムで消しながら読んで思いの外時間がかかりました。


 

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2008年06月12日 23:51に投稿されたエントリーのページです。

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