今日は、全国大会に備えて、私はキックボクシングの道場に行く。スパーリング3ラウンドとミット蹴り3ラウンド、 そしてサンドバックで膝蹴りを2ラウンド、ものすごく汗を流した。体調を整えて全国大会を迎えています。
ところで、上智大学教授のJ・ロゲンドルフさんが芹澤さんのことという題で書いています。
芹渾さんのこと
-J ロゲノドルフ
ヨーロッパ人は日本の多くの有名な作家を試みないのに、何故芹澤さんを好きに思うのだろう。その理由は、
と言ってもなかなか簡単には言えない。 全く偶然に某々のものを翻訳するということもあり得るからである。 とまれ、
芹澤さんの書くものは外国の読者の心に深い感動をよび起こす力を待っていることは否定てきない。その力とほ外ならぬヒューマニズムである。
凡そヒューマスティックな小読家の独創的な想像力を支配する考えにほ二つある。一つは個人の理牲ということ、
つまり 肉対と感覚の暗い本能を克服し 自然と社会の厭力を乗り患えることてあり もう一つは人類の普遍牲ということ つまり人は皆同し性を持っているから 人種 階級を超えた思考と感情の共同体が存在するという確信てある。
ウワーズワスが“ The still sad music of humanity"と詠んたのも まさにこのことを指している。
このような言い方では、いかにも概念的で且つ当然のように聞こえるかもしれない。
作家なら誰でも以上のことを追求するのてはないのだろうか。 この点で 芹澤さんについて特筆すべきことがあるだろうか。・・・・・だが、
現代日本の文藝作品を挑め渡して見ればそういうことはあながち当然でもないと 私は思うのである。時として、
肉体的なものや本能的なものや、刹那的なものや不潔なものが、殆ど病的といってよいほど中心的なものになっているような気がする。
もちろんこういったことは、すべて偉大な文学の中に入り込まざるを得ないのではあるが、しかし、いくら人間の動物性を描いても、
そのために無比なる人間性が曇らされてはいけないのである。そのために、人間のより高い目的への視野が遮られてしまってはならないし、又、
それが、自然と環境という運命の歯車の中で粉砕されたものという誤った人間像を創造してはならないのである。現代の日本文学の多くは
「ミュージック」よりも不協和音を産み出してしまっている。それはヨーロッパ人の目から見ればヒューマニズムの否定であり、
従って美学的にも不快感を催すものである。
私が芹澤さんのすぐれた作品に接して心を打たれるのは、その中に、日本の男女と、 日本という特異の状況を通じて人間の普遍妥当的な心理が顕現されているからである。芹澤さんと同じように、日本の男性、 特に女性の寡言と秘められた情熱を細かく叙述する事の出来る作家は多いだろうが、しかし、それと同時に、 独り日本人のみならず廣く人類の胸の鼓動をあれほどまでになしえる人は滅多にないと思う。
『少女』『秘蹟』『巴里に死す』等に描き出された現実は、世界文学の巨匠達の描いた現実は、 即ち眼前の小さな世界の彼岸にまでつながる広がる現実につながるものである。
ある詩の中にこんな言葉がある。
牢屋の窓近く
2人の男佇(たたずみ)めり。
一人は見たり、土くれを。
一人は見たり、星くずを。
芹澤さんは星を仰ぎみようとする人だと思う。つまり、人間の心の閃きと憧れ、 即ち理想の探求ということがその作品の中で常に試みられているのである。
幸い私は芹澤さんを個人的に知っているので、その独特の文才の由って来るところ推量することが出来るように思う。 きっとそれは苦しい経験の賜物なのであろう。温情と謙虚さの滲みでるその人となりは、苦しみによってこそ大成されたものであろう。実際、 その作品のどこを見ても慈愛がほのぼのと感じられる。芹澤さんは今なお人生の謎を解く為に不撓不屈の精進をつづけて居られるのである。 多くの悩める人々は、小説の中にすら一條の光明見出そうと欲しているのであるから。
(上智大学教授)
芹沢文学の本質をヒュマニティに見るこの考えは、私も同感します。大江健三郎氏も同様ではないかと思います。全国大会では、 芹沢光治良文学の本質が、講演会や演奏会でよく見られるのではないかと思います。