芹沢文学読書会
案内通信
No66
2007年(平成19年)6月24日
6月便り -すくすくと トマトが育つ 嬉しさよ‥・…一
梅雨に入り、鬱陶しい日々が続いていますが、お元気にお過ごしのことと思います。百姓の真似事で野菜を育てていますが、
この雨は植物には恵みの雨だと痛感されます。いや、少なくなったダムの水のことを考えれば、人にとっても恵みの雨と言えましょう。
地球温暖化で砂漠化する国から見れば、日本の梅雨の大雨は羨ましいものでさえありましょう。蒸し暑い梅雨も、じっと耐えるしかありませんが…
。
前回の読書会のテキストは、「支那の旅(日本人の監獄・支那の子供)」と「支那から帰って」を読み語りました。この支那への旅は、
戦地を直接に見て回ったこともあり、作家芹沢光治良氏には大きな意味があったと思います。
結核闘病から健康体を取り戻したという自覚の旅でもありました。戦争は太平洋に拡大され、原爆を受けて敗戦となります。長編小説
『愛と死の書』を書き上げて、文体を確立させると共に、作家としての成熟期を迎えるのですが、
戦争のために創作や発表の機会が失っていきます。それでも、名作『巴具に死す』や『懺悔記』、そして自伝的な中期三部作『孤絶』『離愁』
『故国』などを戦中に書き続けました。
次回は、戦前の評論「現代日本文学」を読み語ることにします。これは、昭和17年にキリスト教女子青年会館で行われた講演です。ですから、
評論といっても、読みやすいものです。読書会でも部分時には読みますが、出来れば通して読んで来て下さい。9月の読書会には、長編小説
『愛と死の書』を読み語りたいと思いますので、夏の暑いときではありますが、夏休みに『愛と死の書』を再読して下さい。
芹沢文学に関心のある新しい知人・友人なども、読書会にお誘い下さい。
第66回・芹沢文学読書会
①日時;7月8日(日) 10:00~12:00AM
②会場;大分県立図書館 研修室No4 〔*奇数月の第2日曜日です〕
③内容;〔1〕芹沢文学に関する録音テープ 10:00~10:30
○平成4年11月15日の柴田徳衛先生の文芸講演「芹沢文学に接して-最近の日本」の残りを聴きます。柴田先生は、
東京都立大学の教授から東京都の公害研究所所長等を務めました。当時、東京経済大学教授。
〔2〕芹沢文学読書会 10:40~12:00 担当司会 小串信正
○テキスト;評論 「現代日本文学」
*戦時中の昭和17年のキリスト教女子青年会館での講演(46歳)。
刊本;『文学と人生』昭和17年12月30日全国書房発行に収録。
再版;『芹沢光治良文学館11』(総題『文学と人生』)に再録。平成8 年6月10日新潮社発行。P.162~185。
*当日部分的には読みますが、通して読んで釆て下さい。
=次回は、9月9日(第2日曜日)10:00~12:00の予定です。=
◎同封資料;随筆「ボアローの楕」芹沢光治良 昭和14年8月1日発行の雑誌<文学界>の「六号雑記」に発表。P234-236* 文筆界の同人として随筆を寄稿したもの。パリ留学の思い出など。 *問合わせや申込みなどは下記小串に電話を(午前中)
芹沢文学・大分友の会
連絡先:メールで問い合わせ下さい。
郵便振替口座01970-5-16072/芹沢文学・大分友の会
芹沢文学・大分友の会 ふ じ
会報 No65
2007(平成19)年 6月24日
文 責 小 串 信 正
☆第65回・芹沢文学読書会の報告
5月20日(日)の午前10時から、県立図書館の研修室No4で、第65回の「芹沢文学読書会」を開きました。毎年、5月の読書会は、
第2日曜日が母の日なので、第3日曜日に変更しています。平成4年11月15日の柴田徳衝先生の文芸講演「芹沢文学に接して-
最近の日本一のテープの後半を聴きました。柴田先生は、世界の各地を巡回し、『世界の都市をめぐって』(岩波新書)を書いて出版しました。
政治・経済・外交などの項目に分け、日本や世界の大きな動きの年表を作成して芹沢氏に提供しました。こうして大河小説『人間の運命』
が書き始められて、第一巻『父と子』が出版されたのは、昭和37(1962)年の7月でした。この巻の「あとがき」は「若い友S君へ」
と題されて、柴田先生への便りで書かれています。次回は、この残りを聴きます。
次に、阿川弘之著『妻の墓標』(新潮文庫)、加賀乙彦著『ヴィーナスのえくば』(中公文津)、中村さんが入手した『祈願』(東方社)、
『佐倍祐三』(中央公論社)、『海と風と愛 芹澤文学の世界』(渚津市立図書館)なども紹介しました。
読書会では、随筆.(紀行文)「支那の旅」「支那から帰って」を読み語りました。芹沢光治良氏は、
昭和13年4月28日から雑誌<改造>の特派員として、支那(中国)の各地(北京・張家口・大同・雲岡・石家荘・済南・青島・上海・
南京など)をニヶ月間で巡歴しました。日支事変の実態を見聞しましたが、長編小説『愛と死の書』の第三章「孤雁」
の取材旅行でもあったのです。北支方面の旅行では、兄真一氏と同行しました。北京には二万人もの日本人が居て、
問題のある日本人のための監獄が必要とのこと。各地で日本兵の話しも聞いたりします。
支那人の日本人に対する心持は支那の子供をよく観察すれば分かるとか。各地の将兵は日本語の活字に飢えていたのに驚き、
逆に支那人を知るためには支那語を学ばなければならないと思ったりしたようです。またこの旅で、
帰国後10年間の闘病で健康な体を回復したという自覚が持てたのです。この取材で長編小説『愛と死の書』の第三章「孤雁」を創作し、
自己の文体も確立しました。短編小説「草笛」「南寺」なども書かれました。
今回も参加者は多くありませんでしたが、ずっとお休みのKさんが久しぶりに参加
されました。他の方々も隔月の読書会ですので、予め都合をつけまして御参加下さい。
次回は、戦中の昭和17年のキリスト教女子青年会館での講演「現代日本文学」を読
み語りたいと思います。評論ですが講演なので、分かり易いと思います。
☆<芹沢文学案内No34> 長編小説『巴里夫人』
昭和30年の1月から12月までの1年間、雑誌<婦人画報>に連載された長編小説です。連載のときは
「女の海一又は巴里夫人UneJaponaise ? paris」の題でしたが、単行本では『巴里夫人』
(昭和30年11月30日光文社発行)とされました。これは、仏訳の三番日の作品とし小野吾郎氏が訳し(アルマン・ピエラール監修)、ロベ
「ル・ラフオン社から昭和33年10月6日に出版されました。この時の題は「MADAME AIDA(マダム・アイダ)」とされました。
昭和49年4月15日新潮社発行の『芹澤光治良作品集(第5巻)』にも『巴里夫人』の題で収録されましたので、この長編小説の題は
『巴里夫人』とすべきです。ですから、最初の題の『女の海』は使われなかったのです。
実は、戦前の昭和13年10月号の雑誌<オール硬物>に発表された短編小説に「女の海」
があったのです。そのことに気がついて、この『女の海』の題を取り下げたとも思われます。この短縞小説は、『抒情』や『祈りのこころ』
に収録されています。
この『巴里夫人』にはモデルがあり、昭和26年のパリ滞在中に親しくした浅田夫人が、「自分が死んだら小説に書いてくれ」
と芹沢氏に詳しく語ったことをもとに創作したのです。しかし、彼女の名をアイダとし、出身も船場でなく名古屋にしています。
〔*前号の『一つの世界』は、以前に紹介していましたので、繰返しになりました。〕