今年10月6日から8日に開催される芹沢光治良文学愛好会 創立30周年記念・芹沢光治良生誕111周年「第6回・
芹沢文学愛読者交流会・全国大会」の三日目は、羽鳥徹哉氏 (日本近代文学会評議員。川端文学研究会理事。解釈学会委員。
ハーバード大学客員教授、成蹊大学名誉教授)の「近代文学に於ける芹沢文学の位置」の講演会が予定されています。
羽鳥氏は、1994年11月27日(日)に芹沢光治良さんのこと-近代的自我と借り物の理-について講演されました。
また、羽鳥先生は、平成5年6月の新潮に「芹沢光治良さんのこと」に近代文学に書かれ
「芹沢を他の近代作家と分かつとくちょうのひとつには、自虐精神の皆無でなかろうか。二葉亭に始まって、漱石、藤村、芥川、
太宰から戦後作家にいたるまで、普通近代作家には自虐の精神が根にあり、、翻ってそれが他への批判に転じていく。自虐、
羞恥の匂いをかぎとった時、私達は安心して相手を許すところがある。しかし、芹沢にはそれがない。悪かった時は、悪かったと率直に言うが、、
人に先生のこの作は傑作だと言われをと、照れもしないで自分も傑作だと言う。裏を読まず、精神に屈折がない。そういうところが、
とかく敬遠の一因となるのだが、これは、生れつきのせいだろうか。三歳で両親に捨てられ、甘えを許されなかったという原体験が、
構神の屈折を払う上に何かの役割を果たしたのだろうか。
両親に捨てられた代わりに、中学進学の頃から芹沢は次々と有力なパトロンを身辺に持
ち、帝大から更にはソルボンヌにまで学んだ。恵まれていることへの感謝は忘れなかっ
たが、恵まれない人と比較してやましさを感じるというようを心の働きは、芹沢にはな
い。一高当時、有島武郎邸の読書会に出席した経験を持つが、有島的苦悩には芹沢は無縁
なようなのである。そうした彼の資性が時に反発の材料になったりするが、屈折する人間
は屈折する苦悩を免罪符として、卑劣の道に入りこむ自分を甘やかす危険がないではな
い。芹沢にはその種の甘えがなく、殆どアナーキーな率直さが、生半可な批判を無効にしてしまう」と述べておられます。
自虐性のなさは、私も感じていますが、それが甘さではなく、
芹沢光治良の持つ根本の厳しさを反映させているのではないかと思っていました。
羽鳥氏の指摘のように、屈折ゆえの免罪符としての甘えの指摘は、なかなかのものだと思いました。
経済的な困窮を経験されたから、有島的苦悩は感じるわけでなく、その厳しい経験をふまえて、
屈折しない芹沢光治良という作家は私からは魅力的に写るのである。
羽鳥先生が「近代文学に於ける芹沢文学の位置」をどのような視点で講演されるか興味深く、楽しみにしています。