6月の月例読書会は、「子供のための新偉人伝7.クールぺの伝記」です。(婦人之友 昭和12年7月号)
「偉人というのは、偉い政治家や学者や又は軍人であるばかりでなく、自分の好きな適した仕事に生命をうちこんで、
それによって人類の幸福につくした人であるという良い例に、画家のクウルペも選ばれるのでしょう。」
と書き始めます。
芹沢光治良先生は、仕事は自分が好きなものをしなさいとよく書いています。芹沢光治良の考える仕事についての一つの視点です。
私が、このテキストに私が注目するのは、好きな仕事によって「人類の幸福につくした人であるという良い例」とハッキリ明示して、
書き始めています。
要するにこのテキストで芹沢光治良先生が考える「人類の幸福」について、読み取れるというわけです。
最初の挿絵は、今ではクールベの代表作とされている、大作『オルナンの埋葬』です。ウキペディアフリー百科事典では、
「この作品発表当時の評判はさんざんであったそうです。この絵にクールベが付けた題名は『オルナンの埋葬に関する歴史画』というものでした。
当時のフランスの人々にとって「歴史画」とは、古代の神々、殉教者、英雄、帝王などを理想化された姿で描いた格調高い絵画のことであった。
これに対し、オルナンという、山奥の田舎町の葬式に集まった名もない人々という主題を、まるで歴史上の大事件のように扱い、
このような巨大な画面(縦約3.1メートル、横約6.6メートル)に表して「歴史画」
と称するのは当時としては常識はずれのことだったのです。」と書かれています。
なぜ名もない人々を主題にしたのでしょうか?その答えを芹沢光治良氏は、このテキストのなかで、「『革帯の男』
はルーブルの博物館にありますが、これから約二十年間は、クウルペの一番幸せな時代であって-仕合わせというのは、
よい仕事ができたという意味ですが、この間に実に多くの傑作を人類に残しましたその頃よく故郷の寂しいオーナンの町に帰省して、
老いた両親をよろこばせましたが、又、少年の頃まだお父さんから絵を描くことを嫌われていた頃と同じように、
故郷の自然や貧しい人々を師として、自然や素朴な魂の告げる暗示を得てパリに帰りました。そして、
その暗示を帰ってから画布の上に生かそうと努力して、精進しました。クウールペの傑作中の傑作というのはみなこうして作られました。
あの有名な『石割り』も、あの素晴らしい『オーナンの埋葬』も『町の娘』も、クウルペは故郷の自然から素朴な心で教えられたのです」
と書いています。
これは解説はいらないですね。クールぺは、絵の中心に故郷の自然や素朴な人々を持ってきたのです。このクールぺの描き方が、
フランスの社会でも英雄、帝王などでなく素朴な人々が中心になるという当然な進歩に一歩先を出ていたのではないでしょうか。
クールぺが評価されるのは当然だとわかります。
テキスト216ページ「サロンの向かい側のモンターニュ通りにバラックを建てて、そこえ自分の絵四十枚とデッサン四枚を展覧して、
世人の批判を求めると同時に、堕落したサロンに反省を求めました。・・・自分の写実主義についての声明を発表しました。」と書かれています。
これが世界初の個展といわれているそうです。 「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立て、
1855年6月28日から公開した。当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなかったそうです。
クールぺの写実主義の声明とはこの目録に書かれた「レアリスム宣言」の事です。美術史上著名なものである「レアリスム宣言」において、
クールベは「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」と言っている。彼の意図は、単なる古典絵画の模倣ではなく、今の時代の風景、人々、
現実を自分の感じたままに描くということであった。21世紀の今日から見れば当然のこのような考え方も、
19世紀の保守的な市民たちにとっては、驚くべき革新的なものであった。(ウキペディアフリー百科事典より)
何となく「人類の幸福」が見えてきませんか。この百科事典の解説よりも前二十世紀初頭に芹沢光治良先生は「風景、人々、
現実を自分の感じたままに描いていたクールぺを「人類の幸福につくした」例にあげています。
芹沢光治良と画家については、佐伯祐三、三岸節子との交流などがあります。
芹沢光治良と美術についてどなたか専門家的な視点で論文を書いてくれませんか?