文学者の運命
J: 今回の例会で一応に皆が目を留め、芹沢先生の創作への決意と感じられた箇所はP108.にある文章であった。
私は人間のあらゆる罪過を自己のものとして、力およばずとも、創作したいと心がけた。 できあがった作品は拙くても、読む者が、それによって魂をゆさぶられ、生きる力を得ればいいのだと、独り考えている。
これは「川端康成の死」について思索することによって導き出された、 芹沢先生の文学者としての姿勢だろうが、同時に、戦時下における文学者の生き方にも通じるものではないか。
戦争への国民としての義務と、モラリストとしての個人との狭間で、 芹沢先生はどのような生き方を取ったのか。
決して永井荷風や宮本百合子のように帝国軍に抵抗はしなかったが、軍の宣撫工作を病気を理由に断った。 軍の要請を断ることは、相当の覚悟が必要だったが、それでも、上海や中支那の友人に顔向けできないことのほうを恐れたのだろう。しかし、 一国民として出来うる協力は惜しまなかった。防空演習や穴掘り、バケツリレーまで、病弱な体に鞭打って参加したのだ。
このような信念を曲げない日ごろの生活態度は、精神力の賜物であり、しいては与えられた運命を生き抜き、 そのことによって読者にも、より良い人生を送りたいと思わせるメッセージに昇華させているのではないか。
例会の中では、芹沢先生の書斎に集い、コーヒーの客になる文学者達についても話題になった。
当時、コーヒーは大変高価な贅沢品で、しかも芹沢家はイギリスブランドのものを使用していたと言う。 伊藤整などコーヒーをご馳走になった作家たちは、美味かったとその風味を記憶している。
そして、コーヒー客として何度も芹沢家の書斎を訪れた作家達のその後の苦悩が書かれているが、 編集者になった者、出征したり結核になった者もいた。また、作品を発表しなくなった者も多く、 中には出版社を紹介してほしかったのだと言う者もいる。
芹沢先生は、その人々に、何故文学がそんな容易なものではないことを、もっと語らなかったかと後悔した。
それはエクリバンという覚悟を持って作品に取り組んできた芹沢先生の文学者としての言葉だったろう。 芸術や文学へ臨む覚悟と、経験から知る壮絶な苦悩は誰一人手助けなど出来ない孤独な作業であることを先生は知っていた。だからこそ、 生命を大切に晩年まで自己を書き抜くことでしか、真のエクリバンには成りえないと書いている。
また、96歳まで書き続けられたのは、 やはり真のエクリバンであったからであろうと、この日、私たちは同意した。