seri1.jpg unmei6.jpg 芹沢光治良文学愛好会

2016年09月25日

芹沢光治良文学愛好会打ち合わせ

本日は午後から月例会の読書会があります。
午前中は生誕120周年記念第7回芹沢文学読書会の打ち合わせをしています。

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この打ち合わせの中で、芹沢光治良先生が好きだったお菓子がわかりました。


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両口屋の是清です。私は、早速注文しました。
posted by セリブン at 11:25| Comment(0) | 全国大会

2016年09月21日

芹沢光治良文学愛好会2016年9月月例会

2016年(平成28年)9月
通信No.470
 
 
9月だより
お元気ですか一台風にともなう豪雨で各地に被害がでています、震度3程度の地震は恒常的に続いておりますが、これらの意
味を大自然に聞いて見たい欲求にかられます。刊行された城戸祐子随筆集を読み、城戸さんの人間愛の豊かさと芹沢文学に寄せる
無垢なる心根に触れることができました。造本(四六判、カバー装、葉紐)、本文組(11ポ42字X15行、170頁、口絵)、2016年9月
1日初版発行、発行所:東信堂となっています。シンプルだけれども深い意味合いを持った装摘となっています。
 
 
第470回
 
.芹沢光治良文学愛好会・
 9月25日(日) 13:00〜17:00 参加費:500円
 
御案内
 
 
 口会 場・・・・・・f東中野区民活動センター」洋室1・2三越マンション1階
東京都中野区東中野4-25-5-101
• JR総武線一東中野駅下車徒歩8分
.地下鉄東西線一落合駅下車徒歩3分
・地下鉄都営大江戸線一東中野駅下車徒歩10分
ロテキスト・・・短編小説「松柏苑J改造昭和9年5月鵠・・・・・8-9月の送信資料
          ないとうまさこ
口司会・・・…・・・内藤正予
@9月の送付資料
(1)リレー随筆「今までの人生を振り返って」鶴巻タキ子・・・・・・第390回(平成28年9月)
(2)森次郎文庫芹沢文子・著作集成・・・・・・第13回(全29回)
学術論文「歌と言葉J声楽ライブラリー6 W発声と発音~ 1994年(平成6年)9月20日第4刷発行音楽之友社
(3)短編小説「松柏苑」第2回(全2回)改造昭和9年5月暁改造社・・・・・・今月のテキスト
(4)新聞記事集成
@野乃宮紀子「芹沢光治良と岩手J岩手日報2016年(平成28年)5月24日(火曜日)
A「光治良と少女小説展j静岡新聞平成28年(2016年)6月17日(金)
B仁王一成記念館々長インタビュー「芹沢文学は人類共有の財産J毎日新聞2016年(平成28年)8月7日(日)
C岡玲子「生誕120年・没後23年の故郷J沼津朝日平成28 (2016)年8月26日(金)
(5) 「第7回・芹沢文学愛読者交流会・全国大会」参加者名簿平成28年9月15日現在・・・・・・参加申込者のみ同封
(6)城戸祐子随筆集『思い出すままに~ 2016年9月1日初版発行東信堂・・・・・・「偲ぶ会J参加者及び申込者のみ同封
{次回は、10月15日(土)~17日(月)の湘南国際村で開催します
「第7回・芹沢文学愛読者全国大会Jのため東中野区民活動センターでの「月例読書会Jは、開催しませんのでご注意下さい。}
※「第7回・芹沢文学愛読者受流会・全国大会Jの「参加者名簿」
10月15日(土)~17日(月)の「全国大会J開催日まで、1ヶ月となりました。8月の会報で「参加案内J第2報をお届けし、再度参加
申込者を募りました結果、69名の参加申込(9月15日現在)がありましたが、その「参加者名簿」を同封(申込者のみ)しましたので、
各自で参加の「コース番号」と「集金金額」をご確認下さい。
※城戸祐子髄筆集『思い出すままに』
故人の万感の想いが込められた装楠本として、9月1日に上梓されましたが、この度ご遺族から恵贈いただきましたので、「城戸祐子
さんを偲ぶ会j参加された方及び随筆集を葉書にて申込まれた方には、同封しておりますのでご査収ください。なお、多めにご恵贈
いただきましたので、今月の月例読書会で先着順(10部限定)に配付しますので、希望される方はお早目に会場にお越しください。
※11・12・1月のテキスト
11月-1月までのテキストを、下記のとおり変更となりますのでお知らせします。
11月・・・野沢朝子著『導かれるままに~ 2015年12月15日第1刷発行※今月の例会日に10部持参し;希望者に配付します。
12月・・・短編小説「波の上」昭和22年5月號(4・5月合併號)発行所:新時代社
1月・・・・長編小説『持情』中部日本新聞昭和22年10月17日(金)-12月31日(水)全6回・・・送付資料(3月~8月)
事務局
芹沢光治良文学愛好会代表鈴木春雄E-Mail:

posted by セリブン at 08:01| Comment(0) | 月例会

2016年09月19日

文学評論 連載「芹沢文学講話」E 芹沢文学研究会 代表 小串信正


  芹沢光治良氏の処女作と出世作

 芹沢光治良氏は、幼少の頃から作文が得意で、沼津中学時代には、『学友会報』に「夜の歸り道」「記念館 心のひゞき」「卒業間際に」などを発表しています。短歌二首も収録されています。講話・講演の筆記をしたり、学芸大会の演説「難船」で一等賞を受賞しています。大正二年度の学芸部長に市河彦太郎、委員に芹沢光治良・橋爪健・北川三郎が選ばれ、これらの秀才組で自主的に回覧同人誌を発行したりもします。沼中時代のことは、大河小説『人間の運命』にも詳しく創作されています。『レマン湖のほとり』に市河彦太郎のことを「彼は中学校の一年先輩で、故郷の名門の出であり、豊かな家庭の長男に生れて、健康で、美男子で、秀才で、人生に何一つ不足のないような『幸福者』であった。中学時代から絵画や文学に優れた才能を発揮して、将来はゲーテのような大芸術家になるのだという野望をいだいて、そう自ら言っていた。」と書いているように一年先輩で、文学的な才能もあり、中学四年生の時に友情を結びました。彼を同級生にして、石田家の御曹司孝一として大河小説『人間の運命』の中心人物として登場させていることは、良く知られています。この頃、実兄が一高に進学し、「彼は一高生になると、休暇毎に祖父母の処へ顔を出して、休暇中に読もうとして持参した文学書を私に見せて、私が欲するならば、休暇中私に貸してくれると言った。ロシア文学の翻訳書や日本の自然主義の小説や白樺派の小説などが多かったが、私は選択することなく、手当り次第、なんでも熱中して読んだ。文学書を読むことで、自分が変わることがはっきり感じられて、力づけられた……」(『文学者の運命』)とあるように、弟を文学へ導きました。

 芹沢氏と文学の最初の出会いは、中学生になって、家が教会となると天理教の雑誌「道の友」が毎月届き、そこに岩井尊人という東大の学生がツルゲーネフの紹介文を連載していたのを熱心に愛読したことでした。中学校の記念図書館で英訳のツルゲーネフを買ってもらい精読したのです。肋膜炎を患った時、その見舞いに市河君からトルストイの短編集をもらいました。また図画教師の前田千寸先生から、雑誌「白樺」や図書室にない多くの文学書を借りて読み、フランスの文化(美術・文学)へ憧れ、のちにフランスへ留学する夢が育まれたのです。代用教員をして学資を貯めて、一年遅れで一高に入学しましたが、仏法科でフランス語を本格的に学びます。『私の青春時代』に「フランス語を学ぶことによって、フランス文化が、目の前にひらかれた。フランス語をはじめて、三カ月目には、ジャン・クリストーフ[注/ロマン・ロラン作。最後の三巻のみ]を原語で独り読むような、無茶なことをした。」と回想しています。寮生活で青春を謳歌して、演劇・音楽・絵画・文学に夢中になります。図書館の蔵書を読み、「入学したとたん、物書きになろうとあこがれていたことを、先ず実行するつもりで、原稿用紙で二十枚から三十枚の短編小説を三編書き上げて、実兄に見せた。」(『文学者の運命』)のですが、兄から厳しく批判され、失望させられました。二年生で作文(一年間に数篇の作文を提出)担当の青木先生の推薦で文芸部の委員に選ばれ、校友会雑誌に「失恋者の手紙」という小説の習作を発表したのです。この時に市河君から励まされ、作家・有島武郎の「草の葉会」にも紹介してくれました。市河君は一高の卒業記念に長編小説『若い芽』を自費出版し、東大法学部を卒業して外交官になり、のちにイラン大使になりました。戦後に外務省を辞めて、自適な生活をしていましたが、参院選に立候補した同窓生の応援演説中に倒れて急死しました。市河彦太郎氏は、作家にならずに終わりました。

 この「失恋者の手紙」は、東大三年生C君の失恋を観察して、習作的に小説化したものですが、菅忠雄君など学友の三人や教官にも認められ、特にフランス語の石川剛教授に評価され、経済的に支援するためにメリメの作品の下訳を依頼され、東大の仏文科に進学して作家の道を目指すように激励されました。

芹沢氏は学資を援助してくれた安生氏の娘鞠さんと恋愛し、短歌を詠み、小説を習作したりもしますが、文学的な才能に自信が持てませんでした。「有島氏の苦悶が経済学の知識の欠如による」ことを思い、京都大学の河上肇博士の「貧乏についての連続講演」を聴いて、東大経済学部へ進学しました。恋人と結婚するためにも文学部でなく経済学部へ進学し、高等文官試験に合格して高等官を目指す必要があったのです。ペールと慕った石丸助三郎氏の麻布邸宅の離れに寄寓します。石丸氏から誕生日祝いに『ジャン・クリストーフ』の原書全巻が贈られました。その後、シェークスピア全集など色々の文学書をもらいました。ペールの勧めで、大学一年の秋に同人雑誌「自分達」に短編小説を寄稿しました。若い糸井助教授に親しみ、実証的社会学を学びます。個人的にはプルードンなどのフランス空想社会主義やバクーニン、クロポトキンなどのアナーキストの書物を読みました。ロシア革命に関心のある学友と研究会を開きましたが、法学部の学友の菊池勇夫君も参加していました。菊池君に勧められ、一緒に高等文官試験の猛勉学をして合格しました。「日本の産業を握っている農商務省のなかにはいって、日本中の貧しい人々が貧困から解放される運動に手を貸そうと、ロマンチックに考え」(『神と死と冨と』)、官吏の道を選びました。しかし、小作法の制定において、自分の理想が叶えられず、官吏であることに絶望します。有島武郎の心中や関東大震災の災害にも打ちのめされます。エリートの高等官に任官され、山林官として秋田に転任しましたが、愛する人がドイツ留学中に医者と結婚することになり、失恋(この時にこれまで作った短歌全てを焼却したとか)した芹沢氏は官吏を辞職して、ベルリンで客死した糸井助教授の遺志を継いでフランスへ留学することを決意しました。石黒課長から、学者の道を勧められ、農林省の委託として海外調査を依嘱されました。

 失意の芹沢氏を励ますために、ペールは旧友藍川清成の娘金江と結婚させ、一緒に留学することを勧めました。新婚の二人を両家で援助することになったのです。大正14年6月に日本郵船の白山丸で渡仏しました。パリ(ソルボンヌ)大学のシミアン教授の研究室に入り、デュルケーム学派の実証的社会学(経済学等)を学びます。専門は貨幣論に取組みました。パリの文化に眩惑され、学問だけでなく再び演劇・音楽・美術・文学にも打ち込みました。16区のボアロー街48番地のボングラン夫人のパンションに下宿しました。このパンションにはアカデミシアンのベルソール(ベレソール)氏が止宿していたことも一つの運命と言えます。親日家のベルソール氏はバルザックの研究家で、フランス文学を教えられ、文学者になりたいという願望が再発したのです。文学者が社会から尊敬されていることも知りました。詩人のポール・ヴァレリーに会い、作家のアンドレ・ジッドや哲学者のベルクソンにも面会しました。演劇人ではルイ・ジュヴェ(ジュウベ)、デュラン、ピエトフ夫妻、ガストン・バティ、ララ夫人、マリ・ベルなどと親しくしました。石川三四郎氏の紹介状でアナーキストの学者ルクリュ家を訪ね、家族的に親交しました。身体的な無理で、肺炎となり、ブザンソン博士から肺結核と診断されました。当時、結核は死病でした。プヌムも効かず、高原療養所で闘病することになり、まずスイスのコー、レーザンを見て回り、スイスフランが高いので、フランスのエーン県オートヴィルの高原療養所(デュマレ博士)に入所し、ホテル・レジナの四階の一室に収容されました。ここで一冬闘病をしましたが、二人(四人)の学生と組になって闘病したのです。この中に天才的な科学者ジャック・シャルマンが居て、大自然の神を教えられ、作家になることを勧められました。読書が許されるようになると、ヴァレリーとジッドの書物をヴラン書店から購入し、ベルソール先生からバルザックを読むことを勧められました。「私は闘病中にフランス文学のクラシックを殆ど全部読んだ。バルザックよりスタンダールに心をひかれた。問題になっている小説も熱心に読んだ。時には一日一冊読みあげるというような、むさぼり方だった。その頃には私の心には創作こそ若い日の夢の実現であり、自己を発展させる仕事であり、生涯かけて悔いない仕事であるという考が、次第にかたちづくられて行った。」(『神と死と冨と』)と書かれているように、この闘病によって、作家へと生まれ変わったのです。この療養所で書いたフランス語の添削をフレーベル(フーベル)夫人にしてもらいました。また夫人が結核療養をしていた若い作家ケッセルに出会い親しみました。日本を題材にして長編小説を共作しようとけしかけられ、プルーストの大作を紹介されました。昭和年の春に退所してパリで口頭試問に応じていて、結核が再発しました。それで、スイスのレーザンの高原療養所「希望」に入り、T博士の診療を受けました。秋に退院と日本への帰国が許されました。イタリー・ギリシャの旅もして無事に日本に帰国すること出来ました。 帰国後に雑誌「改造」の懸賞小説を知り、短期間に創作した中編小説『ブルジョア』を応募し、幸いに一等に当選し千五百円もの賞金を得て、作家としての創作活動を始めました。『ブルジョア』は、コーを高原療養所に虚構して、国際的な登場人物を簡明な文体で創作したものです。モダンな作品として好評されました。正宗白鳥、三木清などにも評価されました。

 この『ブルジョア』は、芹沢光治良氏の処女作と言われ、自分でも「処女作の『ブルジョア』」と書いています。ところが、一高の校友会誌に発表した「失恋者の手紙」を処女作だと言う人もあり、芹沢氏自身もこの作品を処女作であるとも言っていました。このことを最晩年に、季刊「リテレール」の特集「旧著再読」に求められて「一高時代に書いた処女作の思い出」の一文を寄稿しました。熱心な若い読者二人から、処女作はどちらですかと質問されたことから、「失恋者の手紙」を回想しているのですが、この題から芹沢氏は、この作が処女作であると暗に認めていると思います。それで私は、「失恋者の手紙」を処女作とし、『ブルジョア』を出世作だと確定しています。〔平成28(2016)年7月識〕

posted by セリブン at 12:13| Comment(0) | 芹沢文学講話